[本官勘合帳 外國官一号]第251号~第252号
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第貮百五十壱号 『光田三郎』 午二十三歳 p043※明治3年庚午(1870年)
山口藩 佛國
《光田三郎》 佛 p029
山口縣 留学 官
明治三年庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
明治六年 廿六 ※明治6年(1873)
第貮百五十二号 『廣澤健三』 午十七歳 p043※明治3年庚午(1870年)
山口藩 米
辛未正月・・・帰朝
同月廿七日届出免状返納 ※明治4年辛未1月27日
(1871年3月17日)
第貮百五十壱号 『光田三郎』
[光妙寺三郎]
―その人と足跡―
福井純子
第1節 光妙寺と半雲和尚 p104
三郎は弘化4年(1847)8月,
周防国三田尻の光妙寺主半雲和尚(1812-1874)の三男に生まれた。
光妙寺,正しくは浄土真宗本願寺派鬼玉山光妙寺は
山口県防府市東三田尻1丁目に現存する。
三郎は父が住持する寺の名前を姓としたのである。
また彼は時に光田を名乗るが,
これは光の字をとったものである
―略―
第2節 留学 p107
三郎が学んだ横浜の兵学校は
慶応元年(1865)3月幕府が創設したフランス語学校で,
新政府に引き継がれたものであった。
明治3年(1870)8月,
三郎は長州藩から毎月7両の学資金をうけることになり,
12月には,小倉衛門介・周布金槌とともに藩費留学生として
フランス留学の許可を受けた。
彼は翌年1月に出発したが,留学生の選抜にあたっては
木戸・井上の推輓によるところが多いという。
『木戸日記」明治3年10月22日,26日,27日の各条には
「光田三郎来話」の文字が見えるが,
これは留学の相談だったのだろうか。
木戸と三郎との関係は留学後も続く。
第3章 少壮官僚 p111-112
第1節 帰国と任官
太政官権少書記官光田三郎は79年には2度,
内閣委員として元老院に出席している。
1度めは5月14日に始まった
「虎列刺病伝染予防規則」についての会議であり,
太政官少書記官小野梓とともに委員をつとめていた。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/4-4/RitsIILCS_4.4pp.103-128Fukui.pdf
【勅奏官職員録】明治12年5月改正
太政官書記官 p4/104
少書記官 p5/104
小野 梓 東京府平民 p6/104
從六位
浅草區浅草橋場町六番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151991/6
權少書記官 p6/104
周布公平 山口県士族 p7/104
正七位
麹町區上二番町三十二番地
光田三郎 山口縣士族 p7/104
京橋區銀座一丁目九番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151991/7
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
[海を越えた日本人名事典]
人物名:光妙寺 三郎
別 名:光明寺三郎
人物名:光妙寺 以然
別 名:浪江,三蔵,嬾仙
人物名:光田 為然
別 名:光妙寺 以然
人物名:光田 恵然
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php
[京都大学附属図書館 維新資料画像データベース]
吉田松陰とその同志展 人物解説
静間健介,光田三郎
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/jinbutsu_j/jin988.html
第貮百五十二号 『廣澤健三』
[日本英学史学会]
2007/2 其の一
ブルックリン日本人留学生関連日本側資料の紹介と広沢健三の死について
塩崎 智
これまで、アメリカ側のブルックリン留学生関連資料を紹介、
説明してきたが、
今回は、日本側の資料を中心に扱った。
まず、華頂宮一行の五十川基(福山藩)が
手紙の形で藩関係者に郵送したと思われる、『東洋紀行』がある。
陽暦1870年9月22日に横浜をグレート・リパブリック号で出航し、
ブルックリンに着いてしばらく経った陽暦11月14日までの、
日記形式の文章である。
原資料の一部虫食いにより判読できない部分がある。
現地の新聞に取り上げられた日本人関連の記事を読んで
自らの襟を正す様子など、
当時の留学生の心境をリアル・タイムに綴った貴重な資料である。
(『広島県史 近世資料編 VI』所収)
次に、やはり華頂宮一行の五十川と江木高遠(高戸賞士)が
江木の父鰐水に書き送った手紙の内容を、
鰐水が日記に書きつけている部分が数箇所ある。
分量的には決して多くはないし、
手紙そのものではないが(引用のみ)、
学校での月間成績や2人の気概などを伝えている。
これも貴重な資料である。
(「江木鰐水日記」『大日本古記録』6下所収)
広沢真臣の息子健三も
BPI(ブルックリン・ポリテクニーク・インスティチュート)で学んでいたが、
病名不明の病気で急逝した。
広沢の死を扱った新聞記事も紹介したが、
より詳細な説明は次回、さらに今後の発表を待たれたい。
http://eigakushi.org/honbu_07.html
[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第貮百五十壱号 『光田三郎』 午二十三歳 p043※明治3年庚午(1870年)
山口藩 佛國
《光田三郎》 佛 p029
山口縣 留学 官
明治三年庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
明治六年 廿六 ※明治6年(1873)
第貮百五十二号 『廣澤健三』 午十七歳 p043※明治3年庚午(1870年)
山口藩 米
辛未正月・・・帰朝
同月廿七日届出免状返納 ※明治4年辛未1月27日
(1871年3月17日)
第貮百五十壱号 『光田三郎』
[光妙寺三郎]
―その人と足跡―
福井純子
第1節 光妙寺と半雲和尚 p104
三郎は弘化4年(1847)8月,
周防国三田尻の光妙寺主半雲和尚(1812-1874)の三男に生まれた。
光妙寺,正しくは浄土真宗本願寺派鬼玉山光妙寺は
山口県防府市東三田尻1丁目に現存する。
三郎は父が住持する寺の名前を姓としたのである。
また彼は時に光田を名乗るが,
これは光の字をとったものである
―略―
第2節 留学 p107
三郎が学んだ横浜の兵学校は
慶応元年(1865)3月幕府が創設したフランス語学校で,
新政府に引き継がれたものであった。
明治3年(1870)8月,
三郎は長州藩から毎月7両の学資金をうけることになり,
12月には,小倉衛門介・周布金槌とともに藩費留学生として
フランス留学の許可を受けた。
彼は翌年1月に出発したが,留学生の選抜にあたっては
木戸・井上の推輓によるところが多いという。
『木戸日記」明治3年10月22日,26日,27日の各条には
「光田三郎来話」の文字が見えるが,
これは留学の相談だったのだろうか。
木戸と三郎との関係は留学後も続く。
第3章 少壮官僚 p111-112
第1節 帰国と任官
太政官権少書記官光田三郎は79年には2度,
内閣委員として元老院に出席している。
1度めは5月14日に始まった
「虎列刺病伝染予防規則」についての会議であり,
太政官少書記官小野梓とともに委員をつとめていた。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/4-4/RitsIILCS_4.4pp.103-128Fukui.pdf
【勅奏官職員録】明治12年5月改正
太政官書記官 p4/104
少書記官 p5/104
小野 梓 東京府平民 p6/104
從六位
浅草區浅草橋場町六番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151991/6
權少書記官 p6/104
周布公平 山口県士族 p7/104
正七位
麹町區上二番町三十二番地
光田三郎 山口縣士族 p7/104
京橋區銀座一丁目九番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151991/7
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
[海を越えた日本人名事典]
人物名:光妙寺 三郎
別 名:光明寺三郎
人物名:光妙寺 以然
別 名:浪江,三蔵,嬾仙
人物名:光田 為然
別 名:光妙寺 以然
人物名:光田 恵然
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php
[京都大学附属図書館 維新資料画像データベース]
吉田松陰とその同志展 人物解説
静間健介,光田三郎
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/jinbutsu_j/jin988.html
第貮百五十二号 『廣澤健三』
[日本英学史学会]
2007/2 其の一
ブルックリン日本人留学生関連日本側資料の紹介と広沢健三の死について
塩崎 智
これまで、アメリカ側のブルックリン留学生関連資料を紹介、
説明してきたが、
今回は、日本側の資料を中心に扱った。
まず、華頂宮一行の五十川基(福山藩)が
手紙の形で藩関係者に郵送したと思われる、『東洋紀行』がある。
陽暦1870年9月22日に横浜をグレート・リパブリック号で出航し、
ブルックリンに着いてしばらく経った陽暦11月14日までの、
日記形式の文章である。
原資料の一部虫食いにより判読できない部分がある。
現地の新聞に取り上げられた日本人関連の記事を読んで
自らの襟を正す様子など、
当時の留学生の心境をリアル・タイムに綴った貴重な資料である。
(『広島県史 近世資料編 VI』所収)
次に、やはり華頂宮一行の五十川と江木高遠(高戸賞士)が
江木の父鰐水に書き送った手紙の内容を、
鰐水が日記に書きつけている部分が数箇所ある。
分量的には決して多くはないし、
手紙そのものではないが(引用のみ)、
学校での月間成績や2人の気概などを伝えている。
これも貴重な資料である。
(「江木鰐水日記」『大日本古記録』6下所収)
広沢真臣の息子健三も
BPI(ブルックリン・ポリテクニーク・インスティチュート)で学んでいたが、
病名不明の病気で急逝した。
広沢の死を扱った新聞記事も紹介したが、
より詳細な説明は次回、さらに今後の発表を待たれたい。
http://eigakushi.org/honbu_07.html