[關口文子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[關口文子女史] p576/718
明治十五年二月十三日生
東京市京橋區出雲町一三
電話 銀座 四七二七番
美容術師
美容術は時代の生める彩花也。
婦人美の變遷に伴れて粉黛を異にするは自然の數にして、
近來、美容術の洋風化せるは
國民文化の國際化に反映する處と云ふべく、
その技巧の繊細を極め、
時代世粧の粹を發揮して
都下凡百の斯業者に卓然たる異彩を放つものを
關口文子女史となすべし。

女史は東京府の人
關口勝五郎氏の長女として
市外調布町に生れ、
六歳にして同町の永法寺(現在の大正寺)に入つて修養に努む。
十三歳の交
京橋區山城町の粕谷わか女史に師事して
專念斯術を練磨すること三年、
明治三十一年四月一日
京橋區八官町に獨立開業す。
次で同三十三年鑑札制度布かるゝや
第一回の一等鑑札を交附せらる。
是より先、
銀座或は築地の私塾に通學して專ら英語を修得し、
或は又生花術の稽古をなし
關月庵の雅號を授けらる。
同三十六年某氏に嫁し
病夫を助けて激勵し狀師たらしめんと努力せしも、
誠意通ぜず、遂に破鏡の嘆を見る。
茲に於て女史は奮然起つて獨立獨行の決心をなし
專ら美容術を以て終始せんとし、
京橋區南金六町に店舗を構へしが
震災直後三十間堀に移轉し
超へて昭和三年更に現地に移轉し盛大に事業を經營して
遂に今日の信用を博するを得たり。
家庭には嚴父勝五郎氏母堂とめ子健在にして
尚ほ弟妹二子ありて家庭頗る圓滿なり。
趣味は和歌を好くし佳什甚だ多し。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/576
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』