[留學生病死の入費]《日下部太郎》
【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年
【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
明治五年三月(皇紀二五三二 西暦一八七二) p251/295
[留學生病死の入費] p251/295
〔三・ 、新聞雑誌三四〕
米國留學生
足羽縣日下郡太郎病死セシ處、 ※日下部太郎:誤記
辨務使幷彼國師友取扱ヲ以テ、 ※辨務使
左表ノ如ク厚キ埋葬ヲ受ケタリ。
是偏ニ皇國ノ餘澤ト米人ノ懇親ニ依ルコトナルベシ。
一 米國紙幣一百四十四ドル五十錢 棺。
一 同一拾〇ドル 葬式ニ付寺入用。
一 同八ドル 同斷に付花入用。
一 一百二十五ドル 墓地買上代。
一 同一ドル 墓地受取書 町役所帳ヘ書込ニ付、世話斷。
一 一百八十〇ドル七十五錢 石碑幷ニ墓地々形等。
一 同三十〇ドル 墓地生植廻リ芝代。
一 同一百〇〇ドル 葬式ニ付 世話ニ成シ旅宿ヘ遣ス。
一 同貮〇〇ドル 墓地生殖 枯ルルニ付 石墻廻シ代
合 九口 米國紙幣七百九十九ドル二十五錢。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/251
新聞集成 明治編年史 全拾五巻 奥附
第一巻 維新大變革期
會員本
昭和九年十一月二十八日印刷
昭和九年十二月二日發行
昭和十一年十月二十五日第二版
編著者 中山泰昌 編纂代表
發行兼印刷者 草村松雄
東京市赤坂區田町七丁目三番地
印刷所 川口印刷所
東京市芝區西芝浦三丁目二番地
編纂所 新聞集成 明治編年史編纂會
東京市赤坂區溜池町一番地
(三會堂 二階 十一號室)
電話 赤坂 一九三番
一手發賣元 林泉社
東京市小石川區音羽町九丁目十八番地
電話 大塚 (86) 四三九一番
振替 東京 三七二七番
=第一回配本=
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292
[日下部太郎・ウィリアム・E・グリフィス]
くさかべたろう
生没:弘化2年(1845)~明治3年(1870)
弘化2年(1845)、
福井城下の江戸上町(現、福井市宝永4丁目)
150石の藩士の家に生まれた。
慶応3年(1867)23歳のとき、
福井藩第1号の海外留学生となって米国に渡り、
1年間の英語学習の後、
ニューブランズウィック市のラトガース大学に入学した。
勉強熱心な太郎は成績抜群で、多くの人々から賞賛されたが、
学費の不足による苦しい生活と気候風土の違いにより、
卒業を目前にして病に倒れ、26歳の若さで世を去った。
ラトガース大学では、その死を惜しみ、
卒業生名簿に太郎の名を加えるとともに、
首席卒業生だけに贈られる
ファイベーターカッパー協会のゴールドキーを贈り、
その生涯をたたえた。
Copyright (C) 2007 (財)歴史のみえるまちづくり協会. All rights reserved.
http://www.fukui-rekimachi.jp/b_jinbutu/o_kusakabe.html
[日下部太郎の墓を訪ねる]
―略―
ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと
入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳
長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳
となっています。 みんな若くして亡くなっています。
―略―
墓には名前が刻まれていますが、
非常に見にくくなっているものもあります。
5つの石柱の前に見えるのもお墓で、
石柱の上部がなくなって土台のみになっています。
土台のみになった墓にまつられた人たちの名前等も書いておきます。
かわさき しんじろう、 Poughkeepsie, NY、 21歳
さかたに たつぞう、NY, NY、26歳
土台には、英語でのみ名前が書かれているので、漢字はわかりません。
―略―
高木三郎と須磨の娘と書いています。
これも最近作られたものでしょうか。
幼くして亡くなった子供のお墓のためか、
他のとは違うお墓になっています。
高木三郎は、明治の初期、ニューヨークの領事をしていた人です。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/8390/hitorigoto/kusakabe2.html
※辨務使
[kotobank]
森有礼[もり・ありのり]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 弘化4.7.13 (1847.8.23)
没年: 明治22.2.12 (1889)
初代文部大臣として日本近代学校制度の骨格を造った代表的行政官。
薩摩(鹿児島)藩士森有恕と妻さとの5男として鹿児島城下に生まれた。
幼名助五郎,のち通称金之丞,さらに有礼と称した。
壮心に富み修養に励む少年であった。
藩校造士館,開成所(洋学校)に学び,
慶応1(1865)年藩からの留学生に選ばれてロンドン大学に学ぶ。
慶應3年渡米して神秘主義的キリスト教徒T.L.ハリスの感化を受けた。
明治1(1868)年帰国。
外国官権判事,議事体裁取調御用などを勤めたが,廃刀案を提起して免官。
明治3年再び召されて少弁務使として米国に赴任。
―略―
http://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC
【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年
【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
明治五年三月(皇紀二五三二 西暦一八七二) p251/295
[留學生病死の入費] p251/295
〔三・ 、新聞雑誌三四〕
米國留學生
足羽縣日下郡太郎病死セシ處、 ※日下部太郎:誤記
辨務使幷彼國師友取扱ヲ以テ、 ※辨務使
左表ノ如ク厚キ埋葬ヲ受ケタリ。
是偏ニ皇國ノ餘澤ト米人ノ懇親ニ依ルコトナルベシ。
一 米國紙幣一百四十四ドル五十錢 棺。
一 同一拾〇ドル 葬式ニ付寺入用。
一 同八ドル 同斷に付花入用。
一 一百二十五ドル 墓地買上代。
一 同一ドル 墓地受取書 町役所帳ヘ書込ニ付、世話斷。
一 一百八十〇ドル七十五錢 石碑幷ニ墓地々形等。
一 同三十〇ドル 墓地生植廻リ芝代。
一 同一百〇〇ドル 葬式ニ付 世話ニ成シ旅宿ヘ遣ス。
一 同貮〇〇ドル 墓地生殖 枯ルルニ付 石墻廻シ代
合 九口 米國紙幣七百九十九ドル二十五錢。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/251
新聞集成 明治編年史 全拾五巻 奥附
第一巻 維新大變革期
會員本
昭和九年十一月二十八日印刷
昭和九年十二月二日發行
昭和十一年十月二十五日第二版
編著者 中山泰昌 編纂代表
發行兼印刷者 草村松雄
東京市赤坂區田町七丁目三番地
印刷所 川口印刷所
東京市芝區西芝浦三丁目二番地
編纂所 新聞集成 明治編年史編纂會
東京市赤坂區溜池町一番地
(三會堂 二階 十一號室)
電話 赤坂 一九三番
一手發賣元 林泉社
東京市小石川區音羽町九丁目十八番地
電話 大塚 (86) 四三九一番
振替 東京 三七二七番
=第一回配本=
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
[日下部太郎・ウィリアム・E・グリフィス]
くさかべたろう
生没:弘化2年(1845)~明治3年(1870)
弘化2年(1845)、
福井城下の江戸上町(現、福井市宝永4丁目)
150石の藩士の家に生まれた。
慶応3年(1867)23歳のとき、
福井藩第1号の海外留学生となって米国に渡り、
1年間の英語学習の後、
ニューブランズウィック市のラトガース大学に入学した。
勉強熱心な太郎は成績抜群で、多くの人々から賞賛されたが、
学費の不足による苦しい生活と気候風土の違いにより、
卒業を目前にして病に倒れ、26歳の若さで世を去った。
ラトガース大学では、その死を惜しみ、
卒業生名簿に太郎の名を加えるとともに、
首席卒業生だけに贈られる
ファイベーターカッパー協会のゴールドキーを贈り、
その生涯をたたえた。
Copyright (C) 2007 (財)歴史のみえるまちづくり協会. All rights reserved.
http://www.fukui-rekimachi.jp/b_jinbutu/o_kusakabe.html
[日下部太郎の墓を訪ねる]
―略―
ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと
入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳
長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳
となっています。 みんな若くして亡くなっています。
―略―
墓には名前が刻まれていますが、
非常に見にくくなっているものもあります。
5つの石柱の前に見えるのもお墓で、
石柱の上部がなくなって土台のみになっています。
土台のみになった墓にまつられた人たちの名前等も書いておきます。
かわさき しんじろう、 Poughkeepsie, NY、 21歳
さかたに たつぞう、NY, NY、26歳
土台には、英語でのみ名前が書かれているので、漢字はわかりません。
―略―
高木三郎と須磨の娘と書いています。
これも最近作られたものでしょうか。
幼くして亡くなった子供のお墓のためか、
他のとは違うお墓になっています。
高木三郎は、明治の初期、ニューヨークの領事をしていた人です。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/8390/hitorigoto/kusakabe2.html
※辨務使
[kotobank]
森有礼[もり・ありのり]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 弘化4.7.13 (1847.8.23)
没年: 明治22.2.12 (1889)
初代文部大臣として日本近代学校制度の骨格を造った代表的行政官。
薩摩(鹿児島)藩士森有恕と妻さとの5男として鹿児島城下に生まれた。
幼名助五郎,のち通称金之丞,さらに有礼と称した。
壮心に富み修養に励む少年であった。
藩校造士館,開成所(洋学校)に学び,
慶応1(1865)年藩からの留学生に選ばれてロンドン大学に学ぶ。
慶應3年渡米して神秘主義的キリスト教徒T.L.ハリスの感化を受けた。
明治1(1868)年帰国。
外国官権判事,議事体裁取調御用などを勤めたが,廃刀案を提起して免官。
明治3年再び召されて少弁務使として米国に赴任。
―略―
http://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC