[名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる]
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十四年四月(皇紀二五四一 西暦一八八一)
[名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる]p214/292
〔四・三、中立政党政談〕
芝高等館の館員たる人々は一ケ年金十圓を出す代りに、
いつ何時遊びに來るも妨げなく、
又館員の外は猥りに來遊するを許さずとの定規あるは
世の人も略知るところにて、
其館員は皇族大臣參議
その他貴顯紳士等なりとかや、
然るに頃日
市川團十郎、尾上菊五郎の兩俳優が同館員になり度しとて
謀貴顯に願ひたれば、
貴顯は早そく承知され紹介の書簡に
金廿圓を添えて同館の事務委員へ申込まれしに、
委員はこれを拒みて、
當館中には恐れ多くも親王宮家の方々もましますに、
如何駝開(イカニダヒラ)けの今日なりとて
俳優づれを其中に加へんは憚りあり、
此儀は叶ふまじとて斷りたるよし、
委員の口狀は何さま味ひあるやうに覺ゆと同日新聞に見へしが、
其貴顯とは誰なるや又紳士とは誰なるや、
紳士と俳優とは今日の世の中にては
おなじくたいこもちの類にて、
炭と墨との差ひもなければこそ如斯
誤りをなせしならめと人唱へける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/214
[新訂 旅と歴史]
まずは「紅葉館」について紐解いてみます。
芝地区の情報誌に詳しく説明されているので、
そちらを引用させてもらいます。
―略―
紅葉館設立にあたって、野辺地尚義を幹事として、
明治13年(1880)「芝公園地内字楓山地所拝借願」を東京府知事に提出し、
翌年「貴顕紳士の集会共遊を旨とし、
会員300名年会費10円」として開業した
その年早くも洋学者柳河春三の追遠会が
福沢諭吉、新聞記者福地源一郎、農学者津田仙等で催され、
翌年にはE・S・モース(東京大学招聘教授、大森貝塚発見者)が
同僚教授の送別晩餐会に出席している。
明治18年(1885)には当時農商務省の官僚であった
高橋是清の「特許に関する欧米視察」送別会に
西郷従道農商務卿らが出席している。
―略―
ここに50人ほどいた「給仕」とは、
会席で飲食をもてなしたり、
踊りを提供し座に興を添える従業員のことで、
女学校の宿舎よりももっと真面目だといわれていた。
当初は盛岡の人が多かったが後に京都の人が多くなった。
また、紅葉館は外国人の間ではメープル・クラブの名で知られ、
帝国ホテルも東京會舘も洋食だったが、
ここは関西風料理で日本情緒ある料亭として人気があった。
―略―
http://tabireki70.blog114.fc2.com/blog-entry-334.html
[むかし、むかし近隣]
11. 芝・紅葉館(芝)
―略―
開業当初、芝・紅葉館は
300名限定で会費300円の会員制で完全予約制であり、
ほんの一握りの上流階級に属する者しか会員の資格を認められず、
有名人でもなかなか入れなかったという。
そして入り口には「雑輩入るべからず」と書かれた看板があり、
また門には制服姿の守衛が警備して入館者を厳重に管理した。
―略―
http://deepazabu.com/m1/mukasi/kinrin.html
[市川團十郎]
九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎、
天保9年10月13日(1838年11月29日)
- 1903年(明治36年)9月13日)は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。
屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。
俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・
壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、
雅号には夜雨庵(ようあん)。
本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。
五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」を築いた。
写実的な演出や史実に則した時代考証などで
歌舞伎の近代化を図る一方、
伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して
今日にまで伝わる多くの形を決定、
歌舞伎を下世話な町人の娯楽から
日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。
その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。
また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、
通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E_(9%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
[尾上菊五郎]
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、
天保15年6月4日(1844年7月18日)
- 1903年(明治36年)2月18日)は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。
本名は寺島 清(てらしま きよし)。
尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。
定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。
俳名に梅幸。
市村羽左衛門としての屋号は菊屋。
定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。
九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%B8%8A%E8%8F%8A%E4%BA%94%E9%83%8E_(5%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十四年四月(皇紀二五四一 西暦一八八一)
[名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる]p214/292
〔四・三、中立政党政談〕
芝高等館の館員たる人々は一ケ年金十圓を出す代りに、
いつ何時遊びに來るも妨げなく、
又館員の外は猥りに來遊するを許さずとの定規あるは
世の人も略知るところにて、
其館員は皇族大臣參議
その他貴顯紳士等なりとかや、
然るに頃日
市川團十郎、尾上菊五郎の兩俳優が同館員になり度しとて
謀貴顯に願ひたれば、
貴顯は早そく承知され紹介の書簡に
金廿圓を添えて同館の事務委員へ申込まれしに、
委員はこれを拒みて、
當館中には恐れ多くも親王宮家の方々もましますに、
如何駝開(イカニダヒラ)けの今日なりとて
俳優づれを其中に加へんは憚りあり、
此儀は叶ふまじとて斷りたるよし、
委員の口狀は何さま味ひあるやうに覺ゆと同日新聞に見へしが、
其貴顯とは誰なるや又紳士とは誰なるや、
紳士と俳優とは今日の世の中にては
おなじくたいこもちの類にて、
炭と墨との差ひもなければこそ如斯
誤りをなせしならめと人唱へける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/214
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
[新訂 旅と歴史]
まずは「紅葉館」について紐解いてみます。
芝地区の情報誌に詳しく説明されているので、
そちらを引用させてもらいます。
―略―
紅葉館設立にあたって、野辺地尚義を幹事として、
明治13年(1880)「芝公園地内字楓山地所拝借願」を東京府知事に提出し、
翌年「貴顕紳士の集会共遊を旨とし、
会員300名年会費10円」として開業した
その年早くも洋学者柳河春三の追遠会が
福沢諭吉、新聞記者福地源一郎、農学者津田仙等で催され、
翌年にはE・S・モース(東京大学招聘教授、大森貝塚発見者)が
同僚教授の送別晩餐会に出席している。
明治18年(1885)には当時農商務省の官僚であった
高橋是清の「特許に関する欧米視察」送別会に
西郷従道農商務卿らが出席している。
―略―
ここに50人ほどいた「給仕」とは、
会席で飲食をもてなしたり、
踊りを提供し座に興を添える従業員のことで、
女学校の宿舎よりももっと真面目だといわれていた。
当初は盛岡の人が多かったが後に京都の人が多くなった。
また、紅葉館は外国人の間ではメープル・クラブの名で知られ、
帝国ホテルも東京會舘も洋食だったが、
ここは関西風料理で日本情緒ある料亭として人気があった。
―略―
http://tabireki70.blog114.fc2.com/blog-entry-334.html
[むかし、むかし近隣]
11. 芝・紅葉館(芝)
―略―
開業当初、芝・紅葉館は
300名限定で会費300円の会員制で完全予約制であり、
ほんの一握りの上流階級に属する者しか会員の資格を認められず、
有名人でもなかなか入れなかったという。
そして入り口には「雑輩入るべからず」と書かれた看板があり、
また門には制服姿の守衛が警備して入館者を厳重に管理した。
―略―
http://deepazabu.com/m1/mukasi/kinrin.html
[市川團十郎]
[Wikipedia]
九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎、
天保9年10月13日(1838年11月29日)
- 1903年(明治36年)9月13日)は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。
屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。
俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・
壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、
雅号には夜雨庵(ようあん)。
本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。
五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」を築いた。
写実的な演出や史実に則した時代考証などで
歌舞伎の近代化を図る一方、
伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して
今日にまで伝わる多くの形を決定、
歌舞伎を下世話な町人の娯楽から
日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。
その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。
また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、
通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E_(9%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
[尾上菊五郎]
[Wikipedia]
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、
天保15年6月4日(1844年7月18日)
- 1903年(明治36年)2月18日)は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。
本名は寺島 清(てらしま きよし)。
尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。
定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。
俳名に梅幸。
市村羽左衛門としての屋号は菊屋。
定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。
九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%B8%8A%E8%8F%8A%E4%BA%94%E9%83%8E_(5%E4%BB%A3%E7%9B%AE)