[東京すくも人]第2号:《小野梓先生を知るために》兵頭武郎
[東京すくも人]第2号
東京宿毛会 一九八五年版(昭和60年)
東京宿毛会事務局
東京都品川区豊町5-4-3 依岡顯知方
宿毛の英傑
《小野梓先生を知るために》
兵頭武郎
はじめに
幕末から明治にかけて故里宿毛からは、
幾多の英傑が輩出し、
その栄光は百年後の私共宿毛出身の者にとっても
何かと心の誇りと支えになっているのではないだろうか。
その中でも小野梓先生は
近代日本の政治・行政・学問等において
著述や行動で不滅の足跡を残し、
その偉大さは彼の資料に接すれば接するほど
鮮耀(せんよう)な輝きが見られ、
また当時、梓先生と深く係わった大隈重信候や、
後に早大総長となった高田早苗氏ら
多くの人々の残した賛辞でも
充分知ることができるのである。
早稲田大学では、梓先生の偉業を讃え、
創立七十五周年には、
小野記念講堂を竣工し、
また創立百周年記念事業として、
梓先生の著作すべてを網羅した
『小野梓全集』全五巻を
五年の歳月をかけて完成させたのである。
偶然にも私は梓先生が、
三歳から十七歳で宿毛を離れるまで住まわれた、
宿毛市真丁二六一九番地に生れ育ち、
しかも先生が創立に尽力された早稲田に学び、
『明治政府への小野梓の提言』を卒論に卒業することができたので、
梓先生は私にとって近親感と尊敬に充ちた大先輩である。
偉大なる梓先生は私の拙筆では到底表しきれないが、
幸にも資料が多くあるので、
これを供しながら話を進めたい。
なお次項から煩雑を避けるため諸氏の敬称を略する。
おいたち
―略―
―略―
もう一つ宿毛市の清宝寺の境内には明治二十年、
高田早苗ら早稲田の関係者が中心になって建立した
小野梓の碑が現存している。
この碑は、梓の死後一年目に建てられたから
美辞誇色が少なくリアルであるのがよい。
また絶対に筆は持たず
墨跡(ぼくせき)を残さないことで有名な
大隈重信が”小野梓君の碑“という題を
篆字で書いた珍しい碑である。
<写真>
明治20年5月に建てられた「小野梓君碑」の拓本
(中村正直撰 大隈重信篆額 大内青巒書)
―略―
<写真>
機勢隊員:右端が小野梓
(残りの方をご存知の方は編集までお知らせ下さい)
※右から二人目:桑原深造
留学と思想形成の頃
―略―
明治三年春、梓は再び海路上阪し、小野義真を尋ねた。
義真は、平民に身を落してまでして
向学心に燃える梓に感動し、
この時から全面的に梓を後援し、
後には妹利遠(りえ)を嫁にくれたのである。
義真は、先ず東洋を識ることが大切と、
中国行きを勧める。
梓もなんでも見てやろうの方であるから喜んで、
名を東島興児と変名して四カ月程
上海(シャンハイ)から中国奥地を見聞し、
丁度、公用で上海に来た義真と一緒に帰国するのであった。
梓はこの旅行で、
半植民地にされている中国の惨状をつぶさに知り、
『救民論』を漢文で著述している。
『梓先生、初期の論であり、
世界連邦の創設をすすめる
世界的にも先駆的な一文である』と、
早大高野教授は指摘している。
明治四年二月、 ※明治5年2月
小野義真の妹を娶ったあと、
単身で米国へ向い、
ニューヨークのブルックリンに居を構えた。
―略―
大隈侯との出会と「共存同衆」
―略―
梓は官界でもう一つ大仕事をしている。
この頃の政府の要職はほとんど
薩摩・長州人に占有されていた。
佐賀出身の大隈重信は
参議兼大蔵卿として一人孤塁を守るが、
国家予算は議員もいなく議会もないから、
薩長人に都合のよいお手盛り予算が
どんどんごり押しされてしまう。
こんな不正に反対した
大隈は明治十三年二月には
遂に大蔵卿を免ぜられてしまった。
大隈の懐刀、小野梓は、
「公費の使い方を検査する役所を作るべきであり、
しかも太政官内に設置せねばならない」
と大隈に進言する。
今、現存する会計検査院は
この時(明治十三年三月)に設置されたもので、
梓もこの新設された役所に移り、
手腕を発揮していたが、
明治十四年の政変で
大隈が参議からも身を引かざるをえなくなった時、
大隈に殉じて、一等検査官を辞して野に下ったのである。
―略―
新政党設立と梓
学問の独立(早稲田)と梓
良書普及と出版(冨山房の夜あけ)
<写真>
次女・三女とともに(明治17~8年頃)
※二女 墨(小野一雄の実祖母) 三女 安(養祖母)
大著『国憲汎論』の意義
結 び
大正から昭和にかけて、
大山郁夫という梓の孫弟子に当る教授が早稲田にいた。
彼は根っからのリベラリストで学生にも相当人気があった。
私も戦後大隈講堂で先生の講演を聞いたことがあるが
超満員で押しつぶされそうになったことを覚えている。
大山郁夫は、陸軍省が大学にも軍事研究会を作らせたり、
軍事教練を義務付けようとする政策にことごとく盾をつき、
遂に教授をやめざるをえなくなった。
常に軍部からにらまれていた大山郁夫は昭和の初めの頃
遂にアメリカへ亡命するまでに追い込まれてしまった。
この大山郁夫を迎え入れたのが、
ノースウエスタン大学のコール・グローブ教授であった。
大山郁夫はここで昔、
梓が学んだような憲法学説の研究や、
明治憲法の英訳などをしていたという。
昭和二十年、敗戦により日本帝国と軍部
そして明治憲法は完膚なきまでに解体されてしまった。
そして、戦後の日本国憲法はマッカーサー草案に
基づいて創られてしまった。
ところがこの新憲法を創る時、
コール・グローブ教授が、
マッカーサーの憲法顧問に選ばれて、
その指導に当ったのである。
彼は大山郁夫と共に、
日本向きの憲法をよく勉強していたからだった。
早稲田大学史VOLⅡNo.Ⅱに、
高野善一教授と学生のこんな対話が載っている。
教授 天皇機関説の先駆は学祖小野梓先生です。
功利主義者で、ベンサミストであった小野先生こそ、
日本における天皇機関説の鼻祖です。
もしも小野先生の憲法論『国憲汎論』が
そのまま帝国憲法になっていたなら、
日本国憲法についてマッカーサー改革は、
七~八割まで無用だったでしょう……。
学生 『国憲汎論』はそんなに進歩的なものですか?
教授 アングロサクソン系統の流れをくむ憲法ですから……
原酒スコッチに日本の風味を加えた
日本人の口に合う味の「憲法」……
小野先生にはじまり高田先生を介して大山先生へと、
早稲田のアングロサクソン系のプログレッスィブの
伝統は脈々と続いていた。
……現在の日本国憲法は、孫弟子の大山教授を介し、
コール・グローブ教授を介し、
遂に日本に返り咲いたと見られないこともありません。
学生 面白いですね。
小野梓の『国憲汎論』が日本の新憲法に脈々と入り
生かされていることを知っている人は少ない。
この偉大な先駆者、
小野梓を早稲田当局も
ますます大切に扱っているのであるが、
われわれ、宿毛人も小野梓をもっとよく知り、
その偉業を顕章する必要があるのではないだろうか。
(日本文芸社 社長)
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《日本国憲法の誕生》
4-7 コールグローヴ、トルーマン宛書簡 1946年7月29日
GHQ憲法問題担当政治顧問として
1946(昭和21)年3月に来日したケネス・コールグローヴは、
日本人が憲法草案に好印象を持っていることを知り、
帰国後の同年7月29日、トルーマン大統領宛てに書簡を送った。
その中で彼は、GHQを擁護し、
マッカーサーの憲法草案承認に不満を表明していた
極東委員会によって政策変更が行われることは、
日本国民を混乱させるものであると説いた。
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