小川清久(叔父)から小野一雄への手紙:平成4年(1992)6月5日

一雄君

ごぶさたしましたが、元気な声を聴いて安心しました。

(平成4年)5月23日から5日間
大連へ行き念願の写真をとって来ました。

この家は満鉄本社の設計課長の設計になり、
昭和9年に父が建てたものです。

昭和20年以降は誰かの住宅に使用し、
その後は在る機関の幼稚園として使用されていました。
子供の居ない日曜日に行ったので、
管理人は心よく家の中も全部見せてくれ

「貴方のお父さんの建てた家はとても立派な家です。
 今も大事に使っています」と云ってくれました。
しかし、父の気持を思うと感無量でした。

写真の裏にNo.がふってあります。

二階のベランダの右はサンルーム
(屋根はガラスがこわれてから屋根瓦になっていました)
一階のベランダの上は夏 ヨシズ を張っていました。

もと池の周辺と塀の内側は
京都から連れて来た職人さんが築いたもので、
乱れ積み と云っていいたように覚えています。

③の右側に見える庭は もと池で石の橋がかかっていましたが、
埋めてしまって子供の遊び場になっていました。

⑤の中央と⑧は同じ場所で
上から水が流れて滝となっており、(君にあげた写真で)
君の母と祖母が立っていた場所ですが、
埋めてしまったので、高さの実感がないですね。

⑥は表門ですが、門柱も塀(門柱の両側に見えます)も、
やたら高く煉瓦を積みあげてありました。
住宅に使用した頃にそうしたようです。
門は外から庭が見える形のよい鉄柵の門でしたが、
ごらんの通りです。
道をはさんでの家三軒は昔のまゝの家でした。

⑦は二階のベランダから見た正面の景色です。
右側の山裾が静ヶ浦海水浴場、
左側の山裾が老虎灘(ロウ コタン)海水浴場で、
その間に島が二ツ見え、よい景色でした。
写真の両側に見える高い建物はすべて戦後の建物です。

⑨は③にも写っていた(もと池の傍にあった)亭です。
四角いコンクリートは補強のためのものと思われ、
柱は中国式の赤が塗られていました。
以上です。

 家の裏門と勝手口は煉瓦でふさがれてしまってました。
 裏に続いて建てられていた貸家14軒
 (当時、満鉄や三井物産等の課長クラスが入っていましたが)
 はそのまま健在でしたが、
 いずれも一戸に二所帯が住んでいるようでした。

父は私が帰国する前の年に亡くなりましたが、
母は、「お父さんは死ぬ迄に何時も《無念だ》と云っていた」
と云っていましたが、

1915年(大正4年)中国税関に入り、
上海・営口・青島・海南島で勤務し、
昭和5年(1930年)大連税関に転勤、
翌年(昭和6年)が満州事変、
昭和7年に満州国が成立して、
大連税関が満州国に接収された時に、
退職した時の退職金等で建てた家と貸家だったのでした。
鎭魂!

 お元気でまた。
三上先生 御夫妻によろしく
     お伝えください

平成4年(1992)
清久 6月5日 (一週間程 留守にします)
1小川清久(叔父)から小野一雄への手紙
2小川清久(叔父)から小野一雄への手紙

小川清久(叔父)から小野一雄へ
[大連:小川清秀邸の写真]平成4年(1992)6月5日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350942.html