《上豊田区の歴史:野口正利議員》
「京丹波議会だより」第57号[平成30年4月]
「京丹波議会だより」第57号[平成30年4月]
[平成30年4月17日]
発行 京都府京丹波町議会
野口正利議員 p8/24
同和問題の解消は同和地域の人々にとって
安全と安心が約束されることにつながるものである。
上豊田区の歴史を図書文献など調べていくうち、
貝原益軒をして「名所なり」と言わせしめ、
仁孝天皇が即位された1818年には、
※1818年:文化14年11月
大嘗祭において主基方の屏風に和歌が残された。
幕末、維新で京都の町の6割が焼失した時代に書物も多く消失し、
当区の歴史がゆがめられることにつながった。
正しく歴史を伝えることが、解決につながると思うが。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【船井郡誌】大正4年
第十五章 p139/196
五、名勝舊蹟 p144/196
琴瀧 ―略―
《琴瀧》須知村 字 市森に瀑布あり
【船井郡地誌】明治29年7月
紅野
大字須知を距る北方十二町に在り、
今蒲生野といふ。
小丘所々に起伏せるを以て
一望千里の眺なしと雖、
面積五十八町に亘る平原の全部
躑躅花を以て掩はれたれば、
初夏滿開の期に至れば、
紅花綠草の間を點綴して
恰も花氈を敷きたるが如し。
紅野の名亦宜なりといふべし。
貝原益軒の西北紀行に
「園部より二里に須知村あり、
民家多し、曾根村、印内村、
此西に紅新田とて民家少々あり、
其邊に廣野あり、
紅野といひ方一里あり」とあり。
岩淸水 ―略―
市森城址 ―略―
須知八景
乘鞍鹿鳴、市森琴瀧、花岡躑躅、深野朝霧、
上野晴雪、紅野蟲聲、城址桃花、美女名月
之を須知八景といふ。
好事の士の作る所なり。
六、名家
山内氏
土佐藩主山内氏は當町の出なりといふ。
貝原益軒の西北紀行に
「山内村あり、
是れ土佐太守山内氏の先祖の住めりし所なりとぞ、
此邊朝倉山椒多し云々」とあり。
※朝倉山椒:大久保村の項:別稿参照
太平記に
「志宇知、山内、芋毛の者共」といひ、
又「長澤、志宇知、山内、葦田の者共」といへり。
天正中迄 ※天正1年(1573)~天正20年(1592)
山内氏此處に住したりき。
須知氏
市森城主 周知景光の後裔にして、
今大字上野に存す。
天正七年(1579)城陥るに及び、
遁れて此處に潜匿したるものなり。
第十六章 高原村 p145/196
一、沿革
古の須知郷の一部にあたる。
今、豐田、富田、實勢、下山の四大字あり。
大字豐田は元紅井、谷、新宮の三村に分れ、
大字富田は高屋、坪井二村に、
大字實勢は上十勢、下十勢二村に、
大字下山は黑瀨、蕨、尾長野、白土、知野部の五村に分れたり。
―略―
五、名勝舊蹟 p148/196
紅村 歌の名所にして、
高屋川の岸に九手梅存す。
文政元年、 ※文政元年:1818年5月
嘉永元年 ※嘉永元年:1848年4月
兩度の大嘗會に主基田に卜定せられたり。
文政元年 ※文政元年:1818年5月
主基方御屏風に
けさよりも夕は梅の咲きみちて
日影に匂ふ くれなゐのむら
とあり。
狐塚 大字實勢に狐塚と稱する古墳あり。
明治四十三年(1910)夏、
胡麻停車場開鑿の時之を發掘し
石棺を露出せり。
發掘の武器、馬具、陶器等は
今園部警察署に藏す。
城山 大字豐田小字谷に在り。
須知氏の城址なりといふ。
城主は伊賀に逃れ、
須知庄左衞門を稱して藤堂氏に仕へたりと。
其老臣樋口某泉谷寺の下に住し、
廣大なる屋敷跡を留めたり、
子孫山内を稱し尚存す。
按ずるに豐田の須知氏は
須知町大字上野に存する周知氏の一族にして、
谷の古城は市森の支城なり。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月22日 06:50 ◆京丹波町 野口正利議員
紅村は名所也・山内村あり土佐太守山内氏の先祖
【西北紀行 2巻】貝原篤信 記:正徳3 [1713]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇