明治四年には大江卓が差別廢止の建白書を提出した
【国民同和への道】昭和17年
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三 明治維新における解放 p12-13/31
幕末、皇政復古の運動が盛んになるに伴なつて、
四民平等の精神に基づき、
過去久しきに亘つて苛酷な取扱を受けた人々に對しても、
その解放を論ずる者が現れるやうになつた。
例へば、加賀前田家の侍講千秋順之助、
豐後の儒者帆足萬里の如き人々は、
これに關する論策を發表し、
憂國の赤誠をこめて時勢を論じ、
解放の必要なる所以を説いた。
そこで、これらの人々の努力は漸次與論を喚起し、
解放の氣運を醸成して行つた。
慶應三年十二月皇政復古のことが成り、
明治元年三月十四日、
五箇條の御誓文を以て
維新の國是の大方針が中外に宣布せられた。
この御誓文の一箇條に
と宣べさせられたことは、
一部の人々に對する差別の問題に對しても、
政府の處理方針が奈邊にあるべきかを示すもので、
實にこれによつて明治の聖代における
國民同和の基礎が定められたといつてよい。
德川氏においても、
これに先立つて明治元年一月、
先づ關東八州外數州における部落の頭領であつた
彈左衞門に對して平民とする旨の沙汰書を下し、
次いでその部下六十餘人をも彈の願ひを容れて平民とした。
彈は更に進んで配下の部下全部の解放運動に着手して
願書を提出したが、
江戸城の開城に際會したため、
一先づ解放のことは沙汰止みとなつた。
さて維新の大方針がかように明示せられたので、
一部同胞に對する差別撤廢の聲は益々高まつた。
さて維新の大方針がかように明示せられたので、
一部同胞に對する差別撤廢の聲は益々高まつた。
明治二年三月に設立せられた與論公議の府たる公議所においては、
衆口一致して差別撤廢の聲を唱へた。
明治四年には大江卓が差別廢止の建白書を提出した。
ここにおいて、
政府はこれらの不幸なる人々の現状並びに解放の方法、
解放後の措置等について調査研究を進め、
遂に明治四年八月太政官布告を發し、
これらの人々に對する差別的稱呼(穢多非人)を廢し、
その身分・職業共平民と同樣たるべきことを定め、
よつてここに制度上の差別は撤廢せられた。
當時解放せられた人々は、
その總數三十八萬餘と稱せられる。
かくて、萬民あまねく皇恩に浴する時世となつたのである。
しかし、これを以て問題の解決を見るわけにはいかなかつた。
この人々は、法の上においては自由民となりながら、
事實においてはその後も依然として差別を受け、
解放の眞精神に副はざる結果となつた。
ここに同和問題の發生する所以があるのである。
昭和十七年八月 十五日印刷
昭和十七年八月二十一日發行
文部省社會敎育局
印刷者 久保田眞吉(東京五五六)
東京市京橋區西八丁堀一丁目四番地
印刷所 眞宏社印刷所
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發賣所 財團法人 同和奉公會
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年04月22日 05:16 ◆京丹波町 野口正利議員
《上豊田区の歴史:野口正利議員》
「京丹波議会だより」第57号[平成30年4月]
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