《六代 太田典禮:七代 太田典禮(藤本芳輔):
八代 太田典礼(旧名:武夫)》
《六代 太田典禮》
【日本医籍】明治22年8月
京都府 與謝郡 p22/246
太田典禮 三河内村 p22/246
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/22
【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
從來開業醫 京都
太田典禮 與謝郡三河内村 p192/427
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/192
《七代 太田典禮(藤本芳輔)》
【丹後人名銘鑑. 上】大正6年5月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917897/130
◎ 三河内村 p72/139
醫師 太田典禮 p72/139
三河内村字三河内百十八番戸
慶應元年八月十八日生 ※慶応1年8月18日(1865年10月7日)
氏は中郡長善寺村字善王寺
藤本磯四郎氏の次男
前名を芳輔と稱し
明治二十四年九月
先代典禮翁の養嗣子となり
仝三十一年七月
太田家々督相續し典禮と襲名す
氏は東京帝國大學專科の出身にて
婦人科は氏の專門とする處なり
氏の學識技能は遺憾なく
杏林界に發揮され盛名あり
村長、助役、村會議員、郡會議員の要職に在り又
村醫と校醫とを兼ぬ
氏の趣味は讀書圍碁に有り
殊に碁客としては郡中に於ける名手なり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917897/72
【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
開業醫 京都
太田芳輔 中郡峯山浪花町 p79/427
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/79
【日本杏林要覧】明治42年12月
京都 與謝郡
太田典禮 學士 廿四年十月 p147/976
京都平民 慶應元年生
三河内村一一八 電話二三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/147
《八代 太田典礼(旧名:武夫)》
【第三高等学校一覧. 大正10年4月起大正11年3月止】
大正十年卒業生 p167/171
第三部 卒業生 三十六人 p167/171
九醫 太田武夫 京都 p167/171
九醫=九州帝國大學醫學部 p101/171
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940325/167
【九州帝国大学一覧 : 附・第八臨時教員養成所一覧. 大正14年】
卒業生姓名 醫學士 醫學科 p163/268
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940202/163
大正十四年三月試験合格 p174/268
太田武夫 京都 p174/268
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940202/174
【日本医籍録 : 附・医学博士録・法規. 昭和10年版】
京都府 與謝郡 p600/1395
太田武夫 吉津村文殊 p600/1395
産婦人科 太田病院
明治三十三年十月七日生 ※明治33年(1900)10月7日
大正十四年 九大醫學部 卒業
登録 五四三一七號
卒後 京大 婦人科教室ニ勤務
昭和二年四月ヨリ 現地開業
趣味 文藝 繪畫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077296/600
大阪経大論集・第53巻第5号・2003年1月
太田典禮
その生と性と死をめぐる闘い(1)
平等文博
1900(明治33)年10月7日,
太田典禮は京都府与謝郡三河内村
(現在の京都府与謝郡野田川町三河内)の
代々産科の医者で村の大地主でもあった家に,
父芳輔と母政(まさ)の長男
武夫として生まれた。
「典禮」とは
初代の細見玄秀(1647-1716,
与謝郡温江村から三河内村に移り
太田典禮を名乗る)以来,
300年に渡り太田家の当主が医師として受け継いできた名で,
太田武夫/典禮は
8代目の典禮(1942年に襲名)である1)。
―略―
1)太田典禮の子息である太田亙氏がまとめた
「太田の家-歴史とその周辺おぼえ書き」
(私家版, 1992)に依る。
http://www.osaka-ue.ac.jp/gakkai/pdf/ronshu/2002/5305_ronko_byodo.pdf
[Wikipedia]
太田 典礼(おおた てんれい〔旧名:武夫〕)
明治33年(1900)10月7日 – 昭和60年(1985)12月5日)は、
京都府出身の産婦人科医。
元衆議院議員(当選1回)。
九州帝国大学医学部卒業。
産児制限と安楽死を説き、
子宮内避妊具である「太田リング」を考案した[1]。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%85%B8%E7%A4%BC
太田典礼(てんれい)
1905(明治33)年生まれ←『反骨医師の人生』と
1900年生まれ←『ここをわが家とおぼえしか』の両方の記載あり。
10月7日 京都府与謝郡三河内村(現・野田川町三河内区)に生まれる。
300年余続いた医家、地主、資産家の長男。
第二次大戦中、もとの武夫の名を、代々の「典礼」八代として襲名。
京都府立第四中学(後に宮津中学)、三高、九州大学医学部卒。
1925(大正14)年、京都大学大学院、京都産婦人科。医学博士。
―略―
http://www.eonet.ne.jp/~noranekonote/ootatenrei.htm
八代 太田典礼(旧名:武夫)》
《六代 太田典禮》
【日本医籍】明治22年8月
京都府 與謝郡 p22/246
太田典禮 三河内村 p22/246
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/22
【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
從來開業醫 京都
太田典禮 與謝郡三河内村 p192/427
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/192
《七代 太田典禮(藤本芳輔)》
【丹後人名銘鑑. 上】大正6年5月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917897/130
◎ 三河内村 p72/139
醫師 太田典禮 p72/139
三河内村字三河内百十八番戸
慶應元年八月十八日生 ※慶応1年8月18日(1865年10月7日)
氏は中郡長善寺村字善王寺
藤本磯四郎氏の次男
前名を芳輔と稱し
明治二十四年九月
先代典禮翁の養嗣子となり
仝三十一年七月
太田家々督相續し典禮と襲名す
氏は東京帝國大學專科の出身にて
婦人科は氏の專門とする處なり
氏の學識技能は遺憾なく
杏林界に發揮され盛名あり
村長、助役、村會議員、郡會議員の要職に在り又
村醫と校醫とを兼ぬ
氏の趣味は讀書圍碁に有り
殊に碁客としては郡中に於ける名手なり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917897/72
【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
開業醫 京都
太田芳輔 中郡峯山浪花町 p79/427
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/79
【日本杏林要覧】明治42年12月
京都 與謝郡
太田典禮 學士 廿四年十月 p147/976
京都平民 慶應元年生
三河内村一一八 電話二三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/147
《八代 太田典礼(旧名:武夫)》
【第三高等学校一覧. 大正10年4月起大正11年3月止】
大正十年卒業生 p167/171
第三部 卒業生 三十六人 p167/171
九醫 太田武夫 京都 p167/171
九醫=九州帝國大學醫學部 p101/171
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940325/167
【九州帝国大学一覧 : 附・第八臨時教員養成所一覧. 大正14年】
卒業生姓名 醫學士 醫學科 p163/268
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940202/163
大正十四年三月試験合格 p174/268
太田武夫 京都 p174/268
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940202/174
【日本医籍録 : 附・医学博士録・法規. 昭和10年版】
京都府 與謝郡 p600/1395
太田武夫 吉津村文殊 p600/1395
産婦人科 太田病院
明治三十三年十月七日生 ※明治33年(1900)10月7日
大正十四年 九大醫學部 卒業
登録 五四三一七號
卒後 京大 婦人科教室ニ勤務
昭和二年四月ヨリ 現地開業
趣味 文藝 繪畫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077296/600
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
大阪経大論集・第53巻第5号・2003年1月
太田典禮
その生と性と死をめぐる闘い(1)
平等文博
1900(明治33)年10月7日,
太田典禮は京都府与謝郡三河内村
(現在の京都府与謝郡野田川町三河内)の
代々産科の医者で村の大地主でもあった家に,
父芳輔と母政(まさ)の長男
武夫として生まれた。
「典禮」とは
初代の細見玄秀(1647-1716,
与謝郡温江村から三河内村に移り
太田典禮を名乗る)以来,
300年に渡り太田家の当主が医師として受け継いできた名で,
太田武夫/典禮は
8代目の典禮(1942年に襲名)である1)。
―略―
1)太田典禮の子息である太田亙氏がまとめた
「太田の家-歴史とその周辺おぼえ書き」
(私家版, 1992)に依る。
http://www.osaka-ue.ac.jp/gakkai/pdf/ronshu/2002/5305_ronko_byodo.pdf
[Wikipedia]
太田 典礼(おおた てんれい〔旧名:武夫〕)
明治33年(1900)10月7日 – 昭和60年(1985)12月5日)は、
京都府出身の産婦人科医。
元衆議院議員(当選1回)。
九州帝国大学医学部卒業。
産児制限と安楽死を説き、
子宮内避妊具である「太田リング」を考案した[1]。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%85%B8%E7%A4%BC
太田典礼(てんれい)
1905(明治33)年生まれ←『反骨医師の人生』と
1900年生まれ←『ここをわが家とおぼえしか』の両方の記載あり。
10月7日 京都府与謝郡三河内村(現・野田川町三河内区)に生まれる。
300年余続いた医家、地主、資産家の長男。
第二次大戦中、もとの武夫の名を、代々の「典礼」八代として襲名。
京都府立第四中学(後に宮津中学)、三高、九州大学医学部卒。
1925(大正14)年、京都大学大学院、京都産婦人科。医学博士。
―略―
http://www.eonet.ne.jp/~noranekonote/ootatenrei.htm