昭和二年三月七日:北丹後地震(奥丹後大震災)
【奥丹後震災救護誌】昭和3年

【奥丹後震災救護誌】昭和3年5月15日発行
第一章 被害地の概況 p32/162

昭和二年三月七日
春尚淺く稀有の大雪に鎖されて殘寒嚴烈の
奥丹後一帯に突如として
大地震襲來し日暮に近き
午後六時二十七分

人々は夕餉の仕度に忙しく早きは
晩餐の団欒に一家和合して
歡楽の語らひを共にせる折柄

大地は轟然震動し
餘震引續き襲來して
危乎と言ふ間隙なき一瞬時
歡楽の巷も平和の村も忽ちにして
大自然の威力に蹂躙せられたり

震害の区域は
丹後五郡の中東部の加佐郡を除き、
與謝、中、竹野、熊野の四郡に跨る
五十八箇町村に及び

就中
丹後縮緬機業の中心地として知られたる
峰山、網野、加悦、岩瀧の各町を始め

之に隣接せる諸村落は震災につぐに
火災を以てし
殆んど全滅し
或は全滅に近き大破壊を蒙り

文字通りの焦土に化し
之に伴に驚くべき多数の死傷者を出し

一家數人相抱いて慘死し子に別れたる親
親を失ひたる孤兒、
夫に別れ妻を失ひ

實に現世には想像尚且及ばざる悲語哀話は
擧げて數ふるに遑あらず、
凄絶、慘絶、聞くだに慄然として
膚に粟を生ずるを禁じ得ざるものあり。

東は與謝郡伊根村より
西は熊野郡湊村に至る十里餘の間
南は與謝郡與謝村より
北は竹野郡間人町に至る

八里二十二町
面積二十九方里に亙る大地震にして

その廣袤に於ては素より
大正十二年九月の關東大地震に及ばざるも
被害の程度に於ては或は一層深刻なるものあり、

同十四年五月の
北但豊岡、城崎方面の地震に比すれば
遥かに大にして
之に數倍するものあり

實に京都支部空前の天變地異とす。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268548/32
市場救護所 p86/162
本村の人家は殆んど焼失したるを以て

天幕を張り開所せんとし
其の準備を整へ
書記と共に出張せしめ交渉の結果、

村當局は同村字幾地千三百二十九番地
市場村役場敷地内に急造されたる
「バラック」の使用を提議されたるに依り
其の一部を借り受け
三月二十六日より開所し
三月三十日より岩屋村の救護を兼攝す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268548/86
昭和參年五月 十 日印刷
昭和參年五月十五日發行
非賣品
日本赤十字社 京都支部 編纂
印刷者 須磨勘兵衞
    京都市下京區北小路新町西
印刷所 内外出版印刷株式會社
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268548/157

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[山田断層(やまだ だんそう)]
京都府与謝郡与謝野町
―略―
北丹後地震(奥丹後大震災)は、
昭和2(1927)年3月7日午後6時27分43秒に発生した大地震。
震源が浅い直下型で、阪神大震災と同規模のマグニチュード7.3。
揺れは激烈で死者は2925人、全壊家屋は5149戸。
夕食時に重なって火災が多発し、6459戸が全焼した。
―略―
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/yamadadanso.html

桑飼救護所:京都府与謝郡桑飼村字明石小字堂岡
【奥丹後震災救護誌】昭和3
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370677.html