《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>[Quick Japan]

[Quick Japan]Vol.7
(平成8年)1996年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《前編》
取材・文 北沢夏音
 ―略―
〔京都へ〕       p082
チャー坊のお兄さん―

柴田次男氏との待ち合わせに指定されたのは、
京都大学農学部の正門にほど近い百万遍にある
喫茶店「進々堂」である。
 ―略―
チャー坊より五歳程年上の次男氏は、
早逝された父君の跡を継ぎ、

〔職業としての右翼〕の道へと選択の余地なく
進まざるを得なかったという。
 ―略―

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん”―    p077
 ―略―
チャー坊はいつも尚子さんの
母・邦代さんをこう呼んで慕った。
いちばん仲のいい姉として、
両親亡き後は母親代わりとして、
最後までチャー坊を物心両面から
支え続けた邦代さんは、
チャー坊の素顔を知る上で、
真っ先に訪ねなくてはならない人だと思っていた。
「どうぞ私達のことは気になさらず、
 和志のことについて、
 思う存分、
 感じたままを書いてください」
 ―略―
チャー坊の父・柴田金三郎氏は、
立命館大学時代の後輩で、
のちに法務大臣を務めた
自民党代議士・田中伊佐次らと共に、
敗戦と同時になくなっていた
建国記念日制定のため尽力するなど、
関西でも指折りの民族主義運動家だった。

その父の急逝により、
柴田家は激しく揺れ動く。

チャー坊の実兄・次男(つぎお)氏が
大学を中退して跡目を継がなければ
ならなかったことについては、
連載第一回で少し触れたが、
この出来事は、
まだ中学三年生だった
チャー坊の運命をも大きく左右することになる。

「和志は父によく似ていると、
 皆さんおっしゃいました。
 住む世界は違っていても、
 カリスマ性があるところ、
 面倒見のいいところが
 そっくりだと……」

チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
そして二五歳の時に、
周りに推されて市会議員選挙に出て、
組織も何もないところで次点がとれた。

それから弁護士になろうとして
勉強している時に
関西の財界を揺るがすような
大きな疑獄事件があって
―それは口外できないことですが―
何か恩のある方の罪を父が全部かぶって、
何年か獄に入ったんです。

これは父から直接聞いたのではなくて、
父が亡くなってから
人づてで聞いたことですが。

父は初めアナーキスト(無政府主義者)
だったらしいのです。
ところが、
ご存じのように弾圧が非常に厳しくて
常に特高に追われている状態で生活していたのが、 p078
あるとき昭和の初めぐらいに転向して、

内田良平
―この人は民族主義の運動の創始者みたいな方だそうです―
に師事した。

もっとも父は、
いわゆる右翼/民族主義といっても、
あまり過激派という感じでなくて、
理論的指導者という面が強かったようです。

門下の方も大勢いらして、
それと、
こういう仕事にはつきものなんですけど、
やくざのような方ともつきあいがありましたから、

日銀の方や大臣から、
やくざの若い衆に至るまで、
本当にいろんな種類の人が
毎日訪れて来るような、
そんな家だったんです。
 ―略―
ところが、
ちょうど建国記念日が制定された年だからよく覚えていますが、

昭和四一年(一九六六年)、
あの子が中学三年生の時に、
父が脳卒中で亡くなるんです。

そしたら、
それまで「チャー坊、チャー坊」って
ちやほやしていた門下の人達も、
案外サーッと散ってしまって、
そこで生活が百八〇度変わったんです。

<ドロップアウト>  p079
中学時代の和志は、
バスケット・ボールひとすじの子だったんです。

ギターも、
その頃からすごくやっていたんですけど、

運動神経が大変よかったものですから、
大会へ出て優勝したりとか、  ※昭和40年度 深草中学
朝・昼・晩とバスケットで日が暮れるような毎日で、

それが、
高校は市立に行くつもりだったのがすべってしまって、
東山高校っていう仏教の高校に進んだんですけど、
何か合わなかったようで、
今でいう登校拒否みたいになって
「あの学校には絶対行きたくない」って言いだしたんです。

言いだしたら引かない子ですから
どうしようもなくて、
そのうち髪の毛ながーくして
「東京に行く」ってヒッチハイクか何かで行ったと思ったら、
ヒッピーみたいになって帰ってきて、

一人芝居とか、
新宿のグリーン・ハウス(略)で知り合った人と二人で、
お医者さんが着るような白い服を着て、
京都の高島屋の前に立って、
「私の詩を買ってください」とか始めたんですよ。
 ―略―
村八分の活動が盛んだった頃、
「金がなかったらダメだ」って言い出して、
一時期(当時結婚していた)ステファニーと二人で
こっちでチリ紙交換をしていたことがあるんです。
よっちゃんもやってらしたし、

皆さんその頃何故か音楽方面の方で、
チリ紙交換が流行っていたんです。
でもまともに働くということをしたのは、
何月かやったそのチリ紙交換だけ。
 ―略―

※小野雄二:談
 昭和54年(1979)12月頃も、チリ紙交換をしていた。

※小野一雄
 チャー坊(柴田和志)の知人(チリ紙交換業)のマンションンに、
 チャー坊(柴田和志)と訪ねた。昭和55年(1980) 春頃?
 洒落た家財道具が揃っていた。

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.7
(平成8年)1996年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

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[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

東山高校っていう仏教の高校に進んだんですけど、
何か合わなかったようで、
今でいう登校拒否みたいになって
「あの学校には絶対行きたくない」って言いだしたんです。

※チャー坊(柴田和志)
「清水さんは、親切だった」
※清水良規(東山高校 一学年上)

[Wikipedia]
清水 良規(しみず よしのり、1949年12月21日 - )は、
京都府亀岡市出身のバスケットボール選手・指導者である。
O型。現在はパナソニックトライアンズヘッドコーチ。
元バスケットボール男子日本代表監督。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%89%AF%E8%A6%8F