西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派②錯綜した行動半径
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
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錯綜した行動半径 p118-120
『日本及日本人』という隔月刊の雑誌をご存知の人は多いだろう。
発行部数は約二万。
書店で目に触れる唯一の右翼系理論誌として、
誌上を通じて新・旧左翼と激しくわたりあっている。

西山幸輝は、同誌の主宰者である。
例の三島事件の際は、マスコミ関係から電話が殺到し、
その応待に忙殺された。
警視庁の公安三課員もやってきた。
なぜ、こういうことになったかについては少し説明を要する。

右翼系の有力な学生組織に、日本学生同盟がある。
西山は、日学同が結成されて以来、
同組織の有力なリーダーである
矢野 潤(早大OB=喫茶店『ジュリアン』経営)、
斉藤英俊(青山学院大OB=日本工業新聞勤務)らを
ひそかに支援していた。

三島の死をともにした森田必勝は
矢野潤の後輩にあたり、
全日本学生国防会議(日学同傍系組織)の議長であった。
西山は、当然、森田必勝を知っていた。

四十三年(1968)八月、
日学同は、北海道根室で、
二週間にわたる北方領土奪還現地闘争を展開する。
出発に際して、挨拶にやってきた森田ら二十人のために、
西山は闘争資金をカンパし、
事務所で壮行会を開いてやった。

このあと森田らは、海上自衛隊の自衛艦で根室に向かう。
そして森田は、帰京後、
日学同の「大衆路線方式」とタモトをわかち(四十四年二月)
少数精鋭主義
(三島は盾の会を“世界一の小さな軍隊”と呼んでいた)
の盾の会の「軍曹」として伊豆神津島での
靖国学生連盟の「戦闘訓練」(四十四年七月六日~十一日)を
指導するなど、右翼ラジカルへと変貌していく。

森田必勝の行動と西山幸輝とは、直接の関係はない。
が、西山は、一方では、
行動右翼 昭和維新連盟の育ての親であり、
かつては、幾度か短銃と日本刀で狙われたこともある。

三浦義一、児玉誉士夫、佐郷屋嘉昭など
右翼の巨頭とも深いつながりを持ち、
行動派の連合体、青思会(高橋正義議長)や
関西の行動派 尼ケ崎の関西護国団(足立諭彦団長)、
住吉連合系の日本青年社(小林楠男会長)とは、
とりわけ関係が深い。

また西山は、政財界の「裏方」としても一種の「著名人」で、
評論家の大塚英介は、
「京橋将軍」(西山の事務所は京橋にある)
の異名をたてまつっている。

新しいところでは、
ホテル・ニュージャパン問題、
八幡・富士の合併にからむ松庫商店事件、
西鉄の楠根宗生社長辞任総会、
東本願寺紛争などの解決に動いている。

台湾独立運動にも関係し、
中国派・蒋派の双方からニラまれている。
[日本の右翼]p118-119
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そうした錯綜した行動半径から、
なにか事件が起こると、
まっ先にマークされるわけである。

ともかく、西山幸輝が右翼人の若手として
異色の実力者であることは、
筆者がインタビュー中も京橋の事務所に、
彼に会う順番を待つ人たちのなかに、
先ごろ那珂湊を全国的にクローズ・アップさせた
特別警備保障会社の飯島社長の姿があったことからも、
うなずけよう。
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