西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派③ガソリン奪取事件
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年
日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
西山幸輝
壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
ガソリン奪取事件 p120-124
九州という土壌は、
硬骨漢を育てるに、よほど適しているらしい。
右翼の源流黒龍会の中心人物は、
頭山満以下すべて九州の出身だし、
部落解放運動の父 松本治一郎またしかりである。
西山幸輝は、大正十二年(1923)三月生れ。
宮崎県西都市の出身である。
父由太郎は鉱山と山林を経営していて、
少年時代は、馬に乗って「付人」つきで学校へ通ったという。
中学(現西都高校)在学中は、
剣道に打ち込み硬派で鳴らした。
もうすぐ卒業という五年二学期のとき、
暴れすぎたのがたたって学校にいられなくなり、
福岡に出て予備校に通う。
やがて上京、明大に入るが、
由太郎が事業に失敗したため約一年で帰郷(のちに卒業)、
しばらくぶらぶらしているうちに徴兵で、
満州の黒河省へ配属される。
そのうち戦況が悪化して内地に送還され、
終戦は宮崎で迎えた。
終戦の混乱のなかでは、就職しようにも仕事がなかった。
GHQの民主化政策に助けられて、
労働組合運動や社会主義運動が
燎原の火のようにひろがっていった。
二十年(1945)の暮れ、
自由党宮崎支部の結成大会が、宮崎市内で行われた。
中央政界からは、
植原悦二郎(第一次吉田内閣の内相)がやってきた。
副総理格の来県というので、
会場には二千五百人の聴衆が詰めかけ、大変な騒ぎであった。
西山も聴衆のなかにいた。
つぎつぎに立つ政治家の演説は、
その場限りの逃げ口上、
天皇制の問題にふれるものはだれ一人としていなかった。
賛成にせよ、反対にせよ、
自分の立場をはっきりすべきだと
西山はやたらに腹が立ってきた。
植原が演壇に立った。
結党大会のクライマックスである。
西山は、やにわに立ちあがると、
「天皇陛下バンザイ!」
と大声で叫んだ。
大会は混乱におちいり、
西山は、よってたかって殴られ、表にほうり出された。
このハプニ(ングは、)
(このハプニ)ングは、
当時の新聞にも写真入りで報道されている。
西山は、福岡を放浪していたころ、
松本英一(現参院議員=社会党)に世話になったことがあった。
松本は、中学時代は野球の選手で、
松本治一郎のオイにあたり、
社会主義者というより、
解放運動家といったほうがぴったりする
人間的な幅の広さをもっていた。
その薫陶を受けて西山は社会党に入り、
宮崎県連青年部の部長となり、
党とは別に革新派の青年を集め、
宮崎県青年戦線協議会を結成、
その議長をつとめたりする。
戦前、共産党から転向した
労農前衛党の佐野学を引っぱってきて、
九州の主要都市を遊説してまわったのも
この前後である。
筑豊炭鉱地帯や八幡製鉄をかかえた九州は、
共産党の拠点で、
反共の論客 佐野学を引っぱって歩くには、
相当な覚悟が必要だった。
西山が社会党内の異色分子だったのではなく
当時の社会党内の意識構造そのものが
このていどだったのである。
そのころ、米軍が接収していた都城の飛行機場跡に、
ドラム缶二百本分のガソリンがあった。
ダイヤよりもガソリンに目の色をかえた時代である。
しかも、このガソリンは、旧日本軍のものであった。
運動資金に詰まった西山は、
これを失敬して売りとばし、
青年運動の資金にまわすという大胆な計画をたてた。
監視の米兵に見つかれば銃殺だが、
十人の仲間がこの計画に加わった。
豪雨の夜、トラックを調達した西山は、
十人を引きつれて乗り込み、
ドラム缶五十本をまんまんと運び出した。
ガソリンは、二、三日できれいにさばけ、
西山は、なにくわぬ顔をして、運動をつづけていた。
が、なにしろ二百本中の五十本が消えたのである。
監視兵が気づかないはずはなく、
西山はつかまり、米軍の簡易軍裁にかけられた。
西山は、
「もともと日本のものを日本人が持ち出してなぜ悪い」
と、開きなおるつもりだったが、
思わぬ救い主が現われた。
当時宮崎市長だった二見甚郷(元ビルマ大使)が、
宮崎に駐屯していた米軍司令官と交渉し、
宮崎神宮にあった古美術品などを贈ったりして、
もらいさげてくれたのである。
西山のアウトロー的な才能は、
このときすでに萌芽していたといえよう。
それから、半年ぐらいは、
さすがに自宅に蟄居して、
「神皇正統記」や「万葉集」、エンゲルス、推理小説など、
手に入る本を片っ端から読みふけった。
カネがなくなると松本治一郎の自宅へ押しかけ、
食客をきめ込んだ。
松本邸には、
上杉佐一郎(現 解同本部書記長)などといった
解放運動の闘士がよく出入りし、
西山は、それらの人たちとも親しく交流する。
食糧のとぼしい時代であったが、
松本はイヤな顔もせず西山を迎え、
西山も松本を「おじさん」と呼んでいたほどだった。
それから間もなく、
西山は、社会党青年部の本部役員となり上京、
新橋のツツミ・ビルの党(本部に詰めた。)
(新橋のツツミ・ビルの党)本部に詰めた。
片山哲が委員長時代で、
書記長は西尾末広、
組織部長が浅沼稲次郎、
会計は松本治一郎が担当していた。
のちに国会で活躍する
只松裕治や楢崎弥之助(社)、
麻生良方(民社)とは、
このころからの知りあいで、
いまでも立場を超えて、つきあっている。
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