西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派④ハダカで重光元外相を訪ねる
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
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ハダカで重光元外相を訪ねる p124-126
西山が社会党から、一転して右翼運動にとび込むのは、
三浦義一を知ってからである。

右翼には左翼からの転向者が多く、
一つの人脈を形成しているほどだが、
戦後、転向したのは
浅沼美知雄(防共新聞主幹=元社会党杉並区議)と
西山くらいのものであろう。

しかし、西山の場合は、社会党に投じたといっても、
「社会主義社会の実現の可能性を確信していたわけではなく、
 既成の価値観が音をたてて崩れていくあの混乱のなかでは、
 なにかに没入せずにはいられなかった。
 そんなとき、松本先生を知った」
と言っているように、
社会党というより、
松本英一や松本治一郎の人間性にひかれて、
運動に入っていったというほうが当っている。

松本治一郎の周辺には、
むしろ右翼イデオローグに属すると見られる人が数多くいた。
苦難の底部を通過してきた松本には、
それだけの包容力があったのであろう。
だが、政党となるとそうはいかない。

とくに左翼政党には官僚的な統制や教条主義がついてまわり、
規律の名のもとに、しばしば個人の情熱をつみとってしまう。
だから、理論よりも人間関係あるいは感性で行動するタイプは、
政党には向かない。

西山は、そのことを考えはじめていた時期に、
関山義人氏を通じて三浦義一を知る。
政財界に多数の知己をもつ三浦は、
GHQによってたたきつぶされた右翼の再建工作や
政財界の影の「策士」として、
多忙な毎日を送っていた。

その傘下には、
大庭勝一(義仲寺史蹟保存会常務理事)、
栗原一夫(評論家)、
関山義人(興論社社主)氏といった切れ者があり、
三浦を助けていた。

西山が関山義人氏の世話になったのもこの時代である。
関山氏は、三浦が国策社を創設した当時の青年部長で、
三浦と上海に渡り、軍の嘱託として活躍、
終戦で抑留ののち二十一年(1946)四月復員、
日本橋室町のライカビル五階に東京産業を設立し、
機械類のブローカーをはじめた。

その後、
二十八年(1953)、政治文化研究所を設立、
三十七年(1962)十月、民間調査局(私立探偵社)を設置し、
三十三年(1958)八月これを解散したのち、
同年(1958)十一月に政治結社興論社をつくった。

西山は、この関山氏にはひとかたならぬ世話を受けている。
西山は興論社幹部として、三浦義一の手足となって動く。

あるとき、三浦に「重光葵のところまで行ってくれ」
と使いを頼まれた。
三浦の要件は、い(つも緊急を要することばかりである。)
[日本の右翼]p124-125
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(三浦の要件は、い)つも緊急を要することばかりである。

おり悪しく、一着しかない背広は、
クリーニングに出したばかりで着ていくものがない。
おまけにワイシャツも、よれよれのヤツしかなかった。
知りあいに借りにいくにも時間がない。
仕方がないので、ハダカの上にオーバーをはおり、
襟を立ててすっとんで行った。

応接室に現われた重光には、
「カゼを引いておりますので……」とことわり、
ゴホン、ゴホンと空セキをやってゴマかしたという。

大久保留次郎を訪ねたときも、同じ手で切り抜けた。
[日本の右翼]p126-127
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