西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑤「独立独行自由自在」
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

「独立独行自由自在」 p126-128
三十六年(1961)七月、
興論社から独立し、
手塩にかけた六人を中心に昭和維新連盟を結成する。

綱領には、
①青年の知育と徳育の錬成、
②思想的研鑽と同志的結合、
③国際共産勢力の排撃
 の三点をうたった。

昭和維新連盟は、
パンフ「維新シリーズ」を刊行するかたわら、
傍若無人な行動を展開する。

たとえば、日教組大会では、三日前にのり込み、
会場前に大横幕をめぐらし、
日教組打倒の断食をやったり、
駅頭で待ち受けて地方代表に突入するというように
連合組織の全愛会議や青思会との統一行動を無視して、
もっぱら派手なスタンド・プレイを連続的にやってのけた。

そのかわり、部下にはきびしく、
会則に反する行為をした者は、
容赦なく木刀でぶん殴った。

昭和維新連盟が単独行動をとったのには、
それなりの理由がある。

戦後の右翼運動は、
組織的にも資金的にも左翼に大きく水をあけられた。

きれいごとを並べてみたって、どうにもならない。
そこで何といわれようが、
まず団体の名を売り、行動右翼の存在を大衆に印象づけ、
運動の足がかりをつかむ――それが西山の考え方であった。

当然のことながら、その行き方は、
全愛会議や青思会加盟団体の強い反発をかった。

スタンド・プレイや さきがけ行為は、
統一行動を攪乱する――というわけだ。
事実、それから数年間の全愛会議や青思会の統一行動には、
発煙筒をたいたり、
会場に乱入してビラをまいたりする売名的な行動が続出し、
一般市民のひんしゅくをかった。

あれやこれやで西山は、総スカンをくい、
全愛会議の議長団に選ばれたときも、
一部に反対が強く、
佐郷屋嘉昭代表のとりなしで、
やっと諒承するという一幕があったほどだった。

中学時代から硬派で鳴らした西山にとっては、
一定のワクのなかにおさまっているのは、
性にあわないのかも知れない。

佐郷屋嘉昭も、西山を評して、
「とにかく行動をせねば納得のできない男」(『大亜義盟』)と、
書いている。
[日本の右翼]p126-127
〔画像〕[日本の右翼]p126-127

三十九年(1964)六月には、
中国青年反共救国団(蔣経国主任)の招きで、
足立諭彦(関西護国団)ら十三人と渡台、
蔣政権の要人とアジアの反共運動について懇談した。

が、帰国後、
台湾独立連盟の指導者王育徳(明大教授)を知り、
その思想に共感して運動に協力することになる。

「台湾人による台湾」の実現を目ざす、台湾運動は、
蔣政権がもっとも きらうところである。
中国承認についても、
「反共日本の政治テーゼとは別」という立場から、
「平等互恵の日中関係の打開」を主張し、
中国派、蔣政権派の双方から「敵」あつかいされた。

西山は、自邸の書斎に、
「独立独行自由自在」
という頭山満の書をかざっている。
思いたったら周囲がどうあろうと、
大胆に実行に移さずにはいられない性格が、
結果的に西山に「火中の栗」をひろわせることになるわけだ。
[日本の右翼]p128-129
〔画像〕[日本の右翼]p128-129
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