山口二矢との出会い[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年
評伝・赤尾 敏 猪野健治
叛骨の過激人間
わが国右翼運動の
栄枯盛衰と不可分に生きた
“数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
オール出版
山口二矢との出会い p110-114
平成元年(1989)十一月二日、
赤尾敏は入院中の都立大塚病院を抜け出して、
数寄屋橋の街頭に立った。
この日は、
社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺したあと自決した、
山口二矢少年の二十九回目の命日に当たっていた。
〈憂国烈士山口二矢君〉の追悼と
〈国賊社会党撲滅〉の演説をするために、
赤尾は駆けつけたのだった。
演説のあと赤尾は、愛国党関係者十数人と共に、
二矢の墓がある東京・青山の梅窓院に参った。
九十歳で入院中の身といえ、
赤尾には身体をいたわるという考えはなかった。
病院にいると退屈で仕方がなかった。
それに、山口少年の追悼は、
きちんとやらねばという思いがあった。
大日本愛国党本部の聖堂の祭壇には、
二矢のデスマスクが置かれ、
部屋の後方の壁には学生服姿のメガネをかけた
二矢の大きな写真が飾られていた。
まだ幼さを残してはいるが、
一本気な激しい性格が伝わってくる。
赤尾は二矢のことを「純情で過激な性格だった」と評した。
純真無垢な青年への思い入れが強い赤尾は、
九十歳で病身になったこのとき、
死んだ二矢を自分に最も近い存在と感じていたのかもしれない。
愛国党の歴史の中で、
山口二矢の浅沼事件と、
翌年に起きた小森一孝の嶋中事件は、
特筆すべき重要事件である。
ともに元愛国党員だった十七歳の少年が、
自分の信念のためにテロに走り、
二人が死亡した、
赤尾は当時、
二人を犯行に至らしめた黒幕の疑いを受け、
警視庁の厳しい取り調べを受けている。
山口二矢が愛国党に入党したのは、
昭和三十四年(1959)五月、参院選の真っ只中だった。
赤尾は東京地方区から、
愛国党参与の浅沼美知雄は全国区から立候補していた。
六月二日の開票で、二人とも当選こそしなかったが、
赤尾は三万六千票を集め、
浅沼にも全国の市町村でほとんど漏れなく票が入った。
愛国党の信者が各地に根付いていた証拠だった。
演説会もかなりの人気だった。
―略―
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月23日 04:17 ◆柴田和志 [チャー坊遺稿集]
[デスマスク]『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
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