吉村法俊と山口二矢[評伝・赤尾敏]猪野健治著・平成3年
評伝・赤尾 敏 猪野健治
叛骨の過激人間
わが国右翼運動の
栄枯盛衰と不可分に生きた
“数寄屋橋の鬼将軍”の生涯
オール出版
二矢は、愛国党に入党して半年足らずの間に、
その過激な行動から十回以上も逮捕されていた。
原水爆禁止世界大会(広島)の会場に、
愛国党の仲間と宣伝カーで突っ込んだり、
石橋湛山訪中に反対して自宅に数人で押しかけ、
ビラを撒き、警官とわたりあったり、
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)帰還反対デモで
警官を殴ったり……といった過激ぶりであった。
二矢は昭和三十四年(1959)十二月に、
東京家庭裁判所で保護観察四年に処せられた。
赤尾はそのとき、
担当の検事から呼び出しを受けた。
「殴ったとか蹴とばしたとかいう事件がたまっているのを、
その検事が保留にしておったんだ。
取り調べてみると山口君は無邪気で純情でしょう。
こんな感受性の強い子を少年院に入れてしまったら、
かえって不良になってしまうというので、
留めていたと言うんだ。
でも、
『これ以上こういうのが続くと
少年院に行かなくちゃならなくなる。
赤尾さん、
責任を持ってあなたが始終そばにつけておいてくれ、
一人で離しておいちゃダメだ』
といわれてね」
しかし二矢は、翌年(1960)の五月末には、
吉村法俊、中堂利夫の二人と共に愛国党を脱党する。
三人は愛国党本部の離れの部屋に一緒に寝起きをする仲だった。
吉村はカネ集めの才覚があり、
中堂は文章の才がある、
二矢よりは年長の青年だった。
愛国党員の日課であるビラ貼りに端を発した
ちょっとした争いが、
いつの間にか赤尾と吉村の対立になり、
吉村は愛国党を出て行くと宣言した。
その彼に、二矢と中堂も同調したのだった。
この年の初めごろから、
二矢は、愛国党のやり方は生ぬるく、
日本を救うことができない、
と思うようになっていた。
浅沼事件 p115-124
愛国党を脱党した山口二矢は、
一緒に飛び出した吉村法俊、中堂利夫の二人と共に
防共挺身隊の福田進の家に泊めてもらい、
銀座・鳩居堂二階に借りた事務所に通うようになった。
吉村、中堂の二人は新団体結成のための資金集めや
新聞発行の準備などで飛び回っていたが、
二矢には決まった仕事がなく、
事務所で留守番をしている毎日だった。
―略―
―略―
昭和三十五年七月一日に、
吉村、中堂が準備に奔走した新団体、
全アジア反共青年連盟が結成された。
二矢もこれに加わったが、
彼には当分やることはなさそうだった。
そこで、夏の間一カ月半ほど、
右翼運動家の杉本広義
(赤尾敏夫人、富美江の弟、山田十衛の義兄)
が山梨県の北巨摩郡にもっている牧場で働いた。
そして、杉本の勧めで、大東文化大学の編入試験を受け、
九月中旬から大学に通うようになった。
もうこのころには、
二矢には吉村や中堂と一緒に運動をする気持はなく、
左翼の指導者を一人で倒そうという
ひそかな決心が固まっていた。
―略―
―略―
二矢は警察の取り調べでは、
「私の人生観は大義に生きることです」
「自分の信念に基づいて行った行動が
たとえ現在の社会では受け入れられないものでも、
またいかに罰せられようとも、
私は悩むところも恥ずるところもないと存じます」
と述べ、
浅沼委員長刺殺は
全く自分一人の信念で決行したと供述している。
愛国党にいたときに、
左翼の指導者を倒すような話は出なかったかとの質問には、
こう答えている。
「いつだったか記憶にありませんが、
赤尾先生、吉村さんや中堂さん他の党員が、
『左翼を倒さなければならない。
浅沼や野坂、小林を殺さなければダメだ』
※社会党 浅沼稲次郎 委員長
共産党 野坂参三 議 長
日教組 小林 武 委員長
などと話していたことがありました。
私もよく口にしましたが、
これは本当に殺すというものではなく、
右翼が二人以上集まればいつも出る話で、
実行の伴わないものでした」
―略―
赤尾は死の三カ月前、
二矢についてこんなふうに語った。
「普通、共産主義に反対なら、
共産党の委員長をやるのが本当でしょう。
それを社会党の委員長を狙うなんて、
十六、七ぐらいの青年が気がつくこっちゃないんだ。
これはぼくのイデオロギーなんだ。
それを、山口君は若い青年だから思い詰めてやっちゃった。
だからあの事件は、思想的にはぼくの影響ですよ。
山口君が愛国党を出たのは、
一部には、赤尾に愛想をつかしたんだと、
悪口を言う奴がいるが、そうじゃないんです。
山口君は、一緒に出て行った
中堂、吉村の二人に引っ張り出されたんですよ。
山口君は、出てから一人で何度かうちへ来たの。
それでぼくは
『君は何も知らんで連れ出されたんだから、
いつでも戻って来ていいよ』
と言った。
ところが、三人でうちを出るときに、
一緒に運動をやると約束したので、
山口君だけ戻ると裏切りになるでしょう。
青年だから、純情だから、戻れなかったんですよ」
赤尾は何度も、二矢のことを
「青年だから」という言葉で表現した。
それは、赤尾にとって最も大切な「純粋」
という言葉と同義語であるようだった。
小森一孝と嶋中事件 p125-133
―略―
結局、事件は小森一孝の単独犯行ということになり、
小森は懲役十五年の判決を受け、
昭和三十八年(1963)八月に千葉刑務所に服役した。
赤尾自身についても、浅沼、嶋中両事件関連で起訴され、
三十八年(1963)に懲役八月の刑が確定した。
赤尾の起訴事実は次の通りだった。
① ―略―
②吉村法俊 愛国党青年行動隊長と共謀、
三十五年(1960)一月二十四日、
千代田区九段会館で開かれた民社党結成大会を妨害するため、
会場内で発煙筒をたき、
ビラ数百枚をばらまいた威力業務妨害。
③ ―略―
〔画像〕Y[評伝・赤尾敏]p128-129
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