〔小野一雄:小野雄二〕
『小野又一中尉:陸軍技術将校』コメントより
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月27日(金)
『小野又一中尉:陸軍技術将校』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2239336.html
2014年06月24日(火) 19:25 by 小野雄二
親父から聞いた軍隊時代のこと。
殴られたのは一回だけだとか。
殴られる前に上官からこう言われたそうです。
「明日から、殴られることはないだろう。
だから今日お前を殴る・・・」。
それから、親父はこんなことも言っていました。
「大きな声では言えないが、軍隊は楽しかった」と。
飛行機のエンジニアとして、
好きな仕事ができたからだと思います。
2014年06月24日(火) 19:30 by 小野雄二
母から聞いた中国での話。
四平に住んでいる頃のことだと思います。
いろいろあって里帰りしたそうです。
大連までは遠かったと・・。
汽車に乗って、
地平線の見える大地を、一昼夜以上かな?
とにかく遠かったと言っていました。
2014年06月25日(水) 07:04 by 小野一雄
母(小野文子)の話は、始めて知りました。
四平駅~大連駅 585.9km
特急「あじあ」 7.1時間
急行「はと」 8.5時間
特急「あじあ」 (1934年 - 1943年)
表定速度 82.5km/h
急行「はと」 (1932年 - 1945年)
表定速度 68.4km/h
2014年07月09日(水) 12:03 by 小野雄二
終戦時は、退役していたと聞いています。
満飛に戻っているんでしょうね。
そのへんの経緯を教えてください。
終戦時、退役していなかったら、
シベリアだったと親父は言っていました。
満飛ではなく、満鉄だったら、
当分帰国できなかったのでしょう。
飛行機技術は、
当時の中国では
まだ必要とされていなかったのでしょうね。
2014年07月09日(水) 13:12 by 小野一雄
陸軍技術将校として、
昭和16年~19年の間、
二年間、過ごしたと思います。
それ以外の事は全く分かりません。
2014年07月09日(水) 13:31 by 小野一雄
稲荷小学校5-6年生(昭和32-33年頃)
正月2乃至3日、新年の挨拶に、
辻本繁孝様(准尉)、
山川様(当番兵・一乃至二等兵)、
二名の方が、来られていました。
家で飲んで、軍隊時代の話を、
楽しそうに話しておられました。
特に、山川様は、シベリアに抑留されていて、
物凄く、苦しい生活をされたのに、
話は、本当に面白かったです。
それから、親父の行きつけの、
祇園のお茶屋に行き、
その日は帰って来なかったと思います。
山川様は、デザイナーとして成功されて、
大阪心斎橋に事務所がありました。
2014年07月09日(水) 16:47 by 小野雄二
ハルピンには、満飛の工場はあったのですか?
終戦時は、ハルピンだったと思いますので、
軍隊であれば、即シベリアだったと。
ハルピンの話では、
白系ロシア人の美女が川で水浴しているという噂を聞き、
見に行ってみたら、そんなことはなかったと・・。
敗戦後、品のないロシア兵
(両腕には、腕時計がいくつも留めていた)が
家に入ってきたときの話、
隠し持っていたピストルを見つけられたら
殺されていたかも・・、
その時、ロシアの将校が入ってきて、
引き上げるように命令し、命拾いをしたとか・・。
2014年07月09日(水) 16:57 by 小野雄二
山川さんの話。
シベリア編:
トイレに行ったら、凍り付いていたので、
ハンマーで叩いたら、
その飛沫が顔にかかってしまったとか・・・。
日本の料亭編:
外人を連れて料亭に行き、
その外人がトイレに行って出てきた時、
仲居さんが、水を入れた杓子を差し出した。
背の高い外人にとって、
杓子の位置は、彼のその位置だったらしい。
その外人は、
「日本人は、清潔好きなんだ」と思い、
ズボンからあれを出したと、
仲居さんもびっくりした素振りも見せず。
何気なく、水をかけたとか。
山川さん曰く
「外人も立派だけど、
何気なくそうした仲居さんもすごい。
外人の面子もつぶれず、
笑い話になったとか・・。」
2014年07月10日(木) 09:23 by 小野一雄
トイレ:穴を掘って、板を渡しただけのトイレ。
2014年07月10日(木) 09:28 by 小野一雄
[Wikipedia]
満州飛行機製造は1938年後期に日本政府の監督の下[1]、
満州重工業と中島飛行機の支部として設立された[要出典]。
主力工場はハルビンに所在した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E8%A3%BD%E9%80%A0
2014年07月10日(木) 09:56 by 小野一雄
大阪の花柳界の女性であった
女子挺身隊と中学校(…)
女学校(…)の動員生徒で運営されていた。
中学生は破砕、溶融、切断の各工場に配属され、
女子挺身隊は切断、包装両工場、
女学生は包装工場に配属されていた。 p131
動員延期組は、
当時哈爾濱に新設された ※昭和20年(1945)年初
満州飛行機の北機械製作所へ勤務するよう指示された。 p132
工場に隣接する飛行場には
特攻隊員が待機していて、
戦闘機の出来上がるのを待っていた。
私も一度、
できたばかりの九七戦に乗って飛び立つ
鉢巻姿の特攻隊員を、
遥かに見送ったことがある。 p133
『満州で生まれ育った私』
神奈川県 谷澤 淳
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12hikiage/H_12_129_1.pdf
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『小野又一中尉:陸軍技術将校』コメントより
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月27日(金)
『小野又一中尉:陸軍技術将校』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2239336.html
2014年06月24日(火) 19:25 by 小野雄二
親父から聞いた軍隊時代のこと。
殴られたのは一回だけだとか。
殴られる前に上官からこう言われたそうです。
「明日から、殴られることはないだろう。
だから今日お前を殴る・・・」。
それから、親父はこんなことも言っていました。
「大きな声では言えないが、軍隊は楽しかった」と。
飛行機のエンジニアとして、
好きな仕事ができたからだと思います。
2014年06月24日(火) 19:30 by 小野雄二
母から聞いた中国での話。
四平に住んでいる頃のことだと思います。
いろいろあって里帰りしたそうです。
大連までは遠かったと・・。
汽車に乗って、
地平線の見える大地を、一昼夜以上かな?
とにかく遠かったと言っていました。
2014年06月25日(水) 07:04 by 小野一雄
母(小野文子)の話は、始めて知りました。
四平駅~大連駅 585.9km
特急「あじあ」 7.1時間
急行「はと」 8.5時間
特急「あじあ」 (1934年 - 1943年)
表定速度 82.5km/h
急行「はと」 (1932年 - 1945年)
表定速度 68.4km/h
2014年07月09日(水) 12:03 by 小野雄二
終戦時は、退役していたと聞いています。
満飛に戻っているんでしょうね。
そのへんの経緯を教えてください。
終戦時、退役していなかったら、
シベリアだったと親父は言っていました。
満飛ではなく、満鉄だったら、
当分帰国できなかったのでしょう。
飛行機技術は、
当時の中国では
まだ必要とされていなかったのでしょうね。
2014年07月09日(水) 13:12 by 小野一雄
陸軍技術将校として、
昭和16年~19年の間、
二年間、過ごしたと思います。
それ以外の事は全く分かりません。
2014年07月09日(水) 13:31 by 小野一雄
稲荷小学校5-6年生(昭和32-33年頃)
正月2乃至3日、新年の挨拶に、
辻本繁孝様(准尉)、
山川様(当番兵・一乃至二等兵)、
二名の方が、来られていました。
家で飲んで、軍隊時代の話を、
楽しそうに話しておられました。
特に、山川様は、シベリアに抑留されていて、
物凄く、苦しい生活をされたのに、
話は、本当に面白かったです。
それから、親父の行きつけの、
祇園のお茶屋に行き、
その日は帰って来なかったと思います。
山川様は、デザイナーとして成功されて、
大阪心斎橋に事務所がありました。
2014年07月09日(水) 16:47 by 小野雄二
ハルピンには、満飛の工場はあったのですか?
終戦時は、ハルピンだったと思いますので、
軍隊であれば、即シベリアだったと。
ハルピンの話では、
白系ロシア人の美女が川で水浴しているという噂を聞き、
見に行ってみたら、そんなことはなかったと・・。
敗戦後、品のないロシア兵
(両腕には、腕時計がいくつも留めていた)が
家に入ってきたときの話、
隠し持っていたピストルを見つけられたら
殺されていたかも・・、
その時、ロシアの将校が入ってきて、
引き上げるように命令し、命拾いをしたとか・・。
2014年07月09日(水) 16:57 by 小野雄二
山川さんの話。
シベリア編:
トイレに行ったら、凍り付いていたので、
ハンマーで叩いたら、
その飛沫が顔にかかってしまったとか・・・。
日本の料亭編:
外人を連れて料亭に行き、
その外人がトイレに行って出てきた時、
仲居さんが、水を入れた杓子を差し出した。
背の高い外人にとって、
杓子の位置は、彼のその位置だったらしい。
その外人は、
「日本人は、清潔好きなんだ」と思い、
ズボンからあれを出したと、
仲居さんもびっくりした素振りも見せず。
何気なく、水をかけたとか。
山川さん曰く
「外人も立派だけど、
何気なくそうした仲居さんもすごい。
外人の面子もつぶれず、
笑い話になったとか・・。」
2014年07月10日(木) 09:23 by 小野一雄
トイレ:穴を掘って、板を渡しただけのトイレ。
2014年07月10日(木) 09:28 by 小野一雄
[Wikipedia]
満州飛行機製造は1938年後期に日本政府の監督の下[1]、
満州重工業と中島飛行機の支部として設立された[要出典]。
主力工場はハルビンに所在した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E8%A3%BD%E9%80%A0
2014年07月10日(木) 09:56 by 小野一雄
大阪の花柳界の女性であった
女子挺身隊と中学校(…)
女学校(…)の動員生徒で運営されていた。
中学生は破砕、溶融、切断の各工場に配属され、
女子挺身隊は切断、包装両工場、
女学生は包装工場に配属されていた。 p131
動員延期組は、
当時哈爾濱に新設された ※昭和20年(1945)年初
満州飛行機の北機械製作所へ勤務するよう指示された。 p132
工場に隣接する飛行場には
特攻隊員が待機していて、
戦闘機の出来上がるのを待っていた。
私も一度、
できたばかりの九七戦に乗って飛び立つ
鉢巻姿の特攻隊員を、
遥かに見送ったことがある。 p133
『満州で生まれ育った私』
神奈川県 谷澤 淳
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12hikiage/H_12_129_1.pdf
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