《平田 勲》
[日本人の人生觀]
【日本精神と少年保護】昭和14年

【日本精神と少年保護】昭和14年
『日本精神と少年保護』 p3/25
 文學博士 紀平正美
 ―略―

『日本人の人生觀』   p19-24/25
 滿洲國最高檢察廳次長
 前 東京保護觀察所長
   平田 勲

[私の場合]      p19/25
私は東京保護觀察所長を致して居りますと同時に、
他方に於て檢事の仕事を致して居たのでありますが、
思想犯保護の仕事と檢察の仕事とは、
究極に於いて同一の精神に
立脚すべきものであると考へて居ります。

更に、
これは或は奇異に感ぜられるかも知れませんけれども、
支那事變の本當の精神も亦究極に於いては、
司法保護の精神、
或は檢察の精神と、
全く同一のものであると確信致して居ります。

卽ち、
これらの精神は、
畢竟いづれも日本精神に歸着するものと信じます。

私はこゝに、
思想犯保護の精神について
お話することになつて居るのでありますが、
それについて先づ、
私自身の人生觀の問題について申述べたいと思ひます。

實は、私自身と致しましては、
先頃まで、
人生觀の問題に就て
全く何も考へたことはなかつたのであります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098949/19

一たい私は何の爲に生きて居るのか、
私といふ者はどういふものであるか、
斯樣な問題については、
凡そ五十年の間、
殆ど何等考へることなく、
先頃までは過ごして參つたのであります。

と申しますのは、
私は司法官の家庭に生れまして、
しかも一人息子でありましたので、
非常に可愛がられて育ちました。

親の命ずるまゝに
小學、中學、高等學校、大學と參りまして、
何の苦しみなしに、
するすると大學を卒業致しました。

私共の時代は、
大學を卒業致しますと、
すぐに無試驗で司法官に採つて戴けた時代でした。

さういふ關係で私は目をつぶつて居て、
司法官になつてしまつたのであります。

所謂親の七光で、
その後も私自身は實力がないにも拘らず
親のお陰で、實力以上に買はれまして、
到頭東京からあまり出もしないで、
そのまゝ大審院檢事にまでなると
いふような生活を送つて參りました。

從つて人生の問題といふものに就いて
考へたことがありません。
尤も、
斯ういふ生活だから
人生の問題を考へないでも
いゝといふことには
ならないと思ひますけれども、
全く考えへたことがないのであります。

只今の學生諸君は、
學生生活時代から
既に人生の問題に就いて考へさせられる色々な材料、
客觀的事情があると思ひますが、
私の時代にはそれがなかつたのであります。

私自身の生活から申しましても、
當時の客觀的事情と申しますか、
社會的事情から申しましても、
學校は平和な樂園でございまして、
ノートを執つて居りさへすれば、
それで學校は卒業出來るといふ、
未だ社會生活の狂亂怒濤といふものは、
學校には全然及んで居らなかつたのでありまして、
就職に悩むどころか
親が司法官であつた爲に、
幸ひして司法官にして戴いて、
さうして實力以上の待遇を受ける。

斯ういふことでありましたから、
人生の問題などは考へたことがない。

つまり一方から見ますと、
非常に幸福な生活だと見られるかも知れませんが、
他方から言ひますと、
非常に不幸な人間だらうと思ひます。

さうして五十になりまして漸く――
大變お恥しい次第でありますが
人生の問題について
初めて目を開くに至つたのであります。

[轉向學生の人生觀] p20/25
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098949/20

[世界のための日本] p22/25
 ―略―

[眞の日本人]    p23/25
 ―略―

本文         p24/25
 本會主催、
 國民精神總動員體制下
 少年保護事業講習會に於いて、
 「思想犯保護の精神」と題して行はれたる
 講話の一部である。
 文責在記者。

昭和十四年四月四日印刷
昭和十四年四月八日發行
定價 金十五錢
編輯兼發行人 鵜澤 忠
印刷人    横尾留治
       東京市神田區錦町一丁目十四番地
印刷所    松華堂印刷部
發行所    財團法人 日本少年保護協會
       東京市澁谷區千駄ヶ谷四丁目六五八
       電話 四谷 八一六〇番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098949/24

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』