《膳所祥之助》
【大分県人士録】大正3年

【大分県人士録】大正3年

《膳所祥之助》 p108-109/291
 實業家
 東京麹町區富士見町四ノ一一
 文久三年十二月二十七日生:1864年2月4日

◎氏は大分縣宇佐郡高家村の人、
 仁兵衞氏の次男也、
 郷里の小學校を卒業後、
 中津なる大久保逕二氏の塾に漢籍を學び、
    ※大久保逕三
 年二十三の時
 大分師範學校に入り、
 高等師範科を卒業す、
 次で同師範敎頭武田安之助氏に就て、
 理科及經濟等の新智識を涵養す。

◎かくて東京に上り、
 專ら經濟學を初め、
 萬般の學を研き、
 後
 同志四五名と協力して、
 京都に『社會燈』てふ
 過激なる雜誌を創刊し、
 論難攻撃に雄健なる筆を揮ひし結果、
 遂には激越なり政論家として、
 警官に追尾せらるゝに至り、
 剰へ同雜誌は屢々發行停止の厄に遭ひしかば、
 暫し河内の僻地に隱棲するを餘義なくせられぬ。

◎然りと雖も燃ゆるが如き功名心に驅らるゝ氏の、
 何ぞ久しく閑地に悠々たるを得んや、
 半年ならずして、
 再び大阪に出で、
 這囘は實業的方面に健實なる地歩を固むべく、
 肥料會社の創設に奔走したるも、
 事實は豫期に反して成功せず、
 此間二ケ年を徒消し、
 明治二十八年(1895)再上京、
 淺草に紫藤園印刷會社を起し、
 五十餘臺の機械を据付け、
 大々的經營に着手したるも、
 之亦失敗に歸したれば、
 明治三十三年(1900)
 絢爛たる文才を、
 操觚界に揮ふべく東京通信社に入れり。

◎同社にあること二年にして、
 渡邊國武氏の電報新聞を創刊するや、
 氏は現萬朝報記者
 茅原華山子等と共に聘に應じて、
 同社に入り、
 政治部を擔任して勤續六年に及ぶ、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/108
 夫より萬朝報に轉じ、
 明治四十四年(1911)一月まで、
 約四ケ年間同紙上に健筆を揮ふ。

◎氏の操觚界に在る事十五年、
 敢て短しと云ふべからず、
 其間大小の活問題に遭遇して、
 氏の經驗智識は益々該博圓熟を加へ、
 之より素志とせる實業界に一大飛躍を試みんとす。

◎氏爲人、
 温順にして寡言、
 頭腦冷靜にして、
 頗る計數的才に長ず、
 蓋し實業家としての氏の將來は、
 括目に價するものなり。

家庭=夫人の名をセイ子と云ひ
   芳紀五十なり。
   亦氏の趣味は和歌にして、
   風流韻事を解す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/109

大正三年四月一日印刷
大正三年四月四日發行
著者兼發行者 佐藤 巌
       東京市麹町區下六番町十番地
印刷者    小林又七
       東京市麹町區隼町四番地
印刷所    川流堂 小林又七
       東京市麹町區隼町四番地
發行所    大分縣人士錄發行所
賣捌所    株式会社南北社
       東京市牛込區通寺町十四番地
       (電話 番町三八〇四、振替 東京一九四)
       甲斐書店
       大分縣大分市竹町
       (電話一〇八、振替 福岡一七七七)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/288

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』