[畑中健二]②
「京都府船井郡丹波町字富田」
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士


『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1

各出版物が描いている畑中少佐像は、画一すぎていた。 p247
私たちの区隊長の心を動かせた
畑中健二という人物について、知りたいと私は思った。
竹下正彦氏に、
畑中少佐の写真をお持ちではないだろうかと、問い合わせた。
軍務課の先輩だった人である。
《面影は脳裏に灼きついていますが、
 戦局窮迫の折り、
 写真どころではなかったのでしょう、
 探してみましたが、
 一枚も見当りませんでした。》 p248
という返事がきた。
p246-247『自決』
〔画像〕p246-247『自決』

夫人は再婚しているが、
実兄の畑中小一郎氏が健在だと、
住所が記されてあった。
「京都府船井郡丹波町字富田」とある。
すぐに、手紙を出した。
返事は、電話できた。
弟の健二に関する写真、手紙、履歴など
揃え終わったから送る、
お問い合わせの健二の墓所は当地にあり、
祭祀は当方で行っている、という内容だった。
電話の相手が、次に言ったことが、私をすこしおどろかせた。

畑中少佐について問い合わせてきたのは、
私がはじめてであるという。
弟のことを、
皆さんは想像だけで書いておられるように思います、
と相手が呟くように言った。
今時分、また弟のことを、と、
食傷気味かもしれない先方に手紙を出すのを
ためらったのだったが、逆のようだった。

私は即座に、訪宅する旨を伝えた。
市内からバスで二時間近くかかり、
そのバスも、一時間に一本しか出ていないのでと、
私の来訪をとめる口ぶりであったが、
利用する交通機関を訊く私に、
乗車場所や時刻表、
降車停留所などをくり返し教えるのだった。

教えられた京都の八坂神社前から、
日本海方面行きの十一時ちょっとすぎのバスに乗った。
目的地の富田停留所に着くのは、
午後一時ごろなので、
食堂で早目の昼食を摂った際、
先方には電話を入れた。
停留所に迎えに出ているということだった。

秋日和の日だった。
バスは山道をのぼった。
あとひと月もすると、全山紅葉して、
美しい眺めになるだろうと、
胸の内で呟きながら、
私は窓外にぼんやりと眼を投げていた。

峠を越えた。
両側に野面の拡がっている舗装路を、
バスは単調に走った。

富田停留所で下りたのは、私一人だった。
小屋のような待合室には乗車客もいず、
バスはすぐ発車した。
待合室の脇に、長身の人物が立っていた。
私と眼が合った。
畑中小一郎氏であろう。
お互いに、歩み寄った。

小坂をのぼりつめた台地に、  p249
旧家と思われる家があった。
森を背負ってでもいるように、
家の周りに樹木が鬱蒼としている。
庭の大木は木犀である。
居室は新築したらしく、木の香が匂っていた。

大座敷の仏壇に、私の眼がとまる。
拡大された畑中少佐の写真が、飾られてある。
私ははじめて畑中少佐の顔を、眼にした。
脳裏に画いていた顔とは、まったくちがっていた。
唇は上原重太郎のように分厚く、引き締めているが、
両眼尻は下がり気味で、まことに温順(おとな)しい顔である。
平凡な顔ですらある。
あの激しさなどは、到底この顔からは想像できない。
この人が、国体護持のため天皇を擁して蹶起すべく、
クーデターを起こそうとしたのか、 ※宮城事件
この人が藤井、上原両大尉に、
涙をこぼしながら日本を護らねばならぬと説き、
果ては森中将を斬れとまで言ったのかと、
写真の主の言動が実感として湧いてこないのであった。

その旨を私が口にすると、
「健二は、中学生のころ、
 陸士を志望していませんでした。
 目標は、京都の三高でした。
 度胸だめしに四年生のとき陸士を受験しましたら、
 三十何人に一人という難関でしたが、
 合格の通知が参りました。
 健二は嬉しそうでもありませんでした。
 陸士には行かない、
 三高を受験すると、
 と言っておりました。
 ところが、
 “四修で陸士合格”
 と地元の新聞が大きく報道しますし、
 町では祝賀の行事さえ行われました。
 なにしろ小さい町ですし、
 それに昭和四、五年ごろのことでありますから、
 ちょっとした騒ぎでございました。
 健二は渋っていましたが、
 中学校の先生たちや父のすすめで、
 やっと陸士に行くことを決心したのでした。
 やさしい性格の弟でしたので、
 軍人向きではないと私は思っておりました。
 三高に進んで、文学方面のことをやりたかったようでした」
p248-249『自決』
〔画像〕p248-249『自決』

応接卓の上に用意してある資料のなかから、 p250
畑中小一郎氏は一枚の写真を選び出して、
私の前に置いた。
中学生時代の写真だった。
同級生らしい二、三人と写っているが、
はにかんだような顔は、
実兄の言葉を裏付けているように思われた。

「純情で生真面目すぎるほどの弟の性格は、
 父の薫陶にも依ると思います。
 私と弟は妹を中に挟んで六つちがいでしたが、
 父は、私たちが近所の人や
 友達の悪口を少しでも口にしますと、
 ひどく叱りました。
 先祖は酒造りを営んでいたようですが、
 父は農業でした。
 曲がったことを許さない性格でございまして、
 修行僧のようなきびしいところがございました。
 やっと決心して陸士に入学しました健二は、
 素直な性格のまま、
 市ヶ谷精神を全部受け入れたものと思っております」

『東部軍終戦史』は、
畑中少佐について次のように書いている。
「平常温厚の士であり、
 言語態度極めてものやわらかであった。
 しかし、内蔵するところ
 鉄石をも熔かす強烈なものがあった。
 畑中少佐と親交のあった者は、
 最後の場で彼から離れることは出来まい」

畑中少佐の後輩であった人からきた手紙には、
「礼儀正しく、心のやさしい方でした」とある。

写真を一枚ずつ見た。
野砲第一連隊付だった中尉時代の写真、
大尉のときの結婚写真、
参謀懸章を吊った少佐時代のもの……。
いずれの写真も、
どちらかというと温厚というより
おとなしすぎる顔立ちである。

このような将校が、
戦地に於て孤軍奮戦玉砕すると、
英雄視され、
一匹狼に似て蹶起に奔走すると、
馬車馬と批難される。
一人の人間に対する評価は、
容易になされるべきではない。

それは、生き残っている窪田兼三氏についても同じであると、
私は思っていた。
p250-251『自決』
〔画像〕p250-251『自決』
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※平成30年(2018)10月29日
※〔画像〕挿入 表題及一部修正
[畑中健二]「京都府船井郡丹波町字富田」
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
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