[借金の親玉は東本願寺]
《法主(二十二世)大谷光瑩》
『葦原雅亮集』葦原浩二編

『葦原雅亮集』葦原浩二編
福翁こぼれ話 p88-107
~故葦原雅亮師の談話から~
 伊藤正男
2 宗教について p94-95
中上川彦次郎さん(福沢の姉の子)が三井銀行に入つて、
〔明治二十四年(1891)〕
それまでの銀行の放漫な貸付けを改め、
焦げつき債権の整理に着手した時、
借金の親玉は東本願寺で、
その額は百万円にのぼつてゐた。
中上川さんは容赦なくその取立てをやつたので、
時の法主(二十二世)大谷光瑩さんは閉口して、
てつきりこれは福沢先生の指し金だと思ひ、
先生に哀訴嘆願した。

その時
先生(福沢諭吉)は戒めて、
「大体今の坊主は、生活が贅沢すぎる。
 借金で食へなくなつたら、
 生活を切詰めて、粥でも食へ。
 粥も食へなくなつたら、餓死するがいい。
 無一物が坊主の本色ではないか。
 第一借金といつても、
 お前さんのものではなく、
 東本願寺のものだ。
 お前さんは自分で働いてゐるわけではないから、
 一文も自分の身についた金はないはずだ」と、
散々にあぶらを絞つた。

光瑩さん(大正一二年歿:72)といふ人は、
例の句仏上人
(二十三世法主光演。昭和一八年歿:67)
の父であるが、
中々の発展家で、子供が多かつた。

一体に東本願寺の法主は、
西本願寺の光尊光瑞父子に比べると、
軟派の方であつた。

先生は早くから光瑩さんの息子二人
(句仏の弟たち。英磨と温磨)を
慶應義塾に預かつて、
世話してゐたが、
これらの息子を
自分と一緒に風呂を入れてやりながら、
教へられた。

「見ろ、この湯にはお前たちの
 垢や脂が浮いてゐるだらう。
 北国地方に行くと、
 お前たちの入つた風呂の湯を
 有難がつて飲む信者がゐるが、
 不衛生きはまることだ。
 風呂に入つたあとは、
 必ずすぐ栓を抜いて、
 湯を流してしまへ」と。

先生の死後も、
光瑩さんの末の方の子どもが塾に来てゐたが、
これは不良で、
舎監の私は手を焼いたものだ。
 ※舎監:葦原雅亮

 注 明治二十一年(1888)九月、
   大谷光瑩が慶應在学中の息子
   英磨(後の瑩誠)の教育について感謝した
   福沢あての礼状が残つてゐる。
   (全集二十一、三七〇)

平成二年三月十五日印刷
平成二年三月二十日発行
編集・発行 葦原浩二
      熊本県天草郡五和町下内野
      浄土真宗 円教寺
      電話 〇九六九 三三 〇一〇〇番
      制作 海潮社(代表 吉永忠志)
      熊本県本渡市本渡町一七六五の三
      電話 〇九六九 二三 〇三二三番
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【慶応義塾総覧. 大正4年】
大正參年五月 p106/131
大學部文學科文學卒業
(追加試驗)(一)
大谷瑩琇 京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940252/106

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

blog[小野一雄のルーツ]
2015年03月11日(水)
《大谷光瑩:妻妾・子供》
【人事興信録】初版:明治36年~6版:大正10年・等
 三男     瑩誠 明治11年(1878)11月生 母 恒子
     婦  朝子 明治22年(1889)11月生
           三男 瑩誠 妻
           侯爵 廣幡忠隆 妹

 十男  庶子 瑩琇 明治20年(1887)11月生 母 春榮
     婦  貞子 明治23年(1890)12月生
           庶子 瑩琇 妻
           亡 養弟 勝道 長女
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/2446/

blog[小野一雄のルーツ]
2015年08月07日(金)
[佛敵 中上川の功德]
【半世紀財界側面誌】昭和7年
[佛敵 中上川の功德]    p128/250
中上川の固定貸整理が
如何に手きびしいものであつたかは
本願寺に對する百萬圓の回収が
最も雄辯に之を語つてゐる。
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/2733/
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇