[須知家]藤堂高虎とその家臣
[須知家]
元、毛利高政臣で、
慶長の朝鮮役の際に高虎に召し抱えられた
須知出羽定信を初代とする。
定信は、始め主水と称したが、
元和年中に先祖の名に倣ったらしく出羽と改めた。
※元和1年:1615年~元和10年:1624年
須知氏は元々、丹波国船井郡須知城主である。
織田氏の丹波攻略で多くの丹波国人が下城を余儀なくされたが、
須知氏もその一人であり、定信は毛利伊勢守高政に仕えた。
慶長三年、朝鮮再役の折、 ※慶長3年:1598年
戦場に於いて定信が敵陣より放たれた虎を馬上から
一突きに突き殺したのを見た高虎が、高政に懇願して貰い受けた。
当時、朝鮮半島に本当に虎がいたのか分からないが、
事実なら「虎退治」で有名な加藤清正と
肩を並べる武功ということになる。
須知家の系図にはこの時の虎皮は須知半之丞家の子孫である
須知正左衛門正慎の家に蔵すとあるから本当なのかもしれない。
慶長三年、 ※慶長3年:1598年
高虎の家臣となり、二千石を給される。
高虎は定信の能力を高く評価していた様で
慶長六年、 ※慶長6年:1601年
家康より福島正則の監視を命じられた際には、
定信を伊予国甘崎城代とし、来島家の旧臣十余人を配下として預けた。
これが後、「久留島衆」と呼ばれる様になった。
同十九年の大坂冬の陣には ※慶長19年:1614年
旗本士大将となり組士三十八騎を率い、負傷。
翌元和元年の夏の陣にも旗本士大将を務めたが、
※元和1年:1615年
五月六日の戦闘で先鋒が壊滅したため
翌七日は右先鋒の相備となった。
寛永十六年十二月二日、死去。
※寛永16年12月2日:1640年1月24日
定信は、遺言で自分の禄を嫡子だけではなく、
一族に分与される様に願い出ていたらしく、
寛永十七年二月にその遺領は次の様に分割して与えられた。
※寛永17年2月:1640年3月
五百石 須知孫左衛門吉正 定信嫡子
三百石 須知丞助正廣 定信の孫(娘の子)
二百石 須知権之丞 定信の甥(弟の子)
二百石 須知少(所)左衛門定元 定信の甥(弟の子)
百五十石 須知左近正長 定信の甥(弟の子)
須知所左衛門家は、四代目に至って
藤堂出雲家から養子・元宴を迎えたが、
元宴は藩主の一族ということから、
享保十四年に藤堂姓を下賜され、禄も千三百石に上った。
※享保14年:1729年
昭和20年時の海軍相浦海兵團長・須知幸太郎大佐は、
藤堂藩士・須知家の子孫と思われるが、どの家の子孫かは分からない。
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