大江卓氏の解放運動:三好伊平次・述【維新前後に於ける解放運動】昭和5年

【維新前後に於ける解放運動】昭和5年
  融和問題叢書第三編
 維新前後に於ける解放運動
  三好伊平次・述
 財團法人 中央融和事業協會

 目 次 p4/33
 ―略―
維新前後に於ける解放運動
       三好伊平次
所謂部落の解放運動、
特に維新前後の解放運動に於ては
これまで何人によつても
組織的に調査され記述されたものがありませぬので
纏つた參考資料は今の處
絶無であるといつてよいと思はれます。

私はこのことを遺憾と存じまして
多年舊幕府の記錄や、
各藩の文献や、
地方の資料や、
各種の著述や、
又 當時直接間接この解放に關係せられた方々等
あらゆる方面に就いて材料を蒐集してゐました。

今其の中で的確と信ずるものゝみを纏めて
此の稿を作つたのであります。

説述の都合上初めにざつと所謂部落の起因の梗概を述べ、
それから本題に入ることに致します。

 七、大江卓氏の解放運動 p21-23/33
維新の大業の際高野山の義擧に加はりて功績の尠くなかつた
土佐宿毛出身の志士 土居卓造氏
(後 大江卓と改め晩年 天也(てつや)と稱した)
當時 官を止めて兵庫の湊川附近に閑居して居た、

湊川に近い宇治川在にフロノ谷と稱する所がある、
此處は所謂部落であつて
曾て德川光圀が楠公の墓を展した際
墓前に生き生きした花が立てられ
線香が薫じてゐたので、
これは奇篤のことである
一體これは誰れが展墓するのであるかと
よく調べて見た所が、
それは實にこのフロノ谷の人々が
毎日香華を手向けてゐたのであつた事を聞いて、
其の淳(あつ)き至誠に感激せられたといふ
由緒のある部落であるが、
何分多年に亘る周圍の不合理な差別のために
物質的にも精神的にも非常に惨憺たるものであつた、

或日 大江氏は此の部落の人々の狀態を見て大に慨嘆せられ、
斯ういふ氣の毒な狀態の下にゐるものは
啻(ただ)に此の部落ばかりではあるまい
全國を通じてそうした境遇に泣いてゐるものが
恐らく幾十萬人といふ多數に上ることであらう、

戊辰の御誓文にも
『舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ』と
宣(のたま)はれてあるに拘はらず
依然として今尚ほ陋習に累(わざはひ)せられて
惱んでゐる同胞のあることは
一時も捨て置くことはできない、

斯かる人々に自由を得せしめることが
陛下の大御心を體する所以であると
深く決心する所あつて、

明治三年八月
其の調査に掛り
翌年上京して先づ
大隈參議(八太郎 後 重信と改む)に圖りて
其の賛成を得
大隈參議の紹介で
大木民部大輔(民平 後 喬任と改む)に會つて p22/33
それから正式にヱタ・ヒニン廢止の建白書を提出した。
大江氏の建白書は第一第二の二回に亘つて提出されてゐる

第一回の分には先づ我國良賤の變遷より説き起して
賤稱廢止の要を説き、
それより廢止の方法、
廢止後の措置にまで及んでゐる。

第二の建議は第一回の建白中に解放後蝦夷地に移して
牧畜に從事せしめてはと書きしが、
よく考へるとそれは却て
蝦夷地に第二の部落を形成することゝなるの
虞(おそれ)があるから、
此の際先づ無條件で平人となし、
其の人々に自覺奮勵を促して
殖産興業を奬勵することが
もつとも適切なることであるとして、
一々詳細に其の方法を具陳したのであつた。

此の大江氏の建白を受けた大木民部大輔は、
其の建白を納れそれを具體化する爲めに
大江氏に對し民部省に入つて
其の手腕を揮(ふる)はんことを求めた、

そこで大江氏はよろしい私も這入りませう
が私が民部省に入つて事に當るとなれば
私から推薦したい人物があるから
是非それを採用して貰ひたいと言ひ出した、

それは誰か、
他でもない先年平人に復した
彈左衞門であるといつた、

大木民部卿も一寸考へたが、
可(よ)し
彈をも採用しやうと快諾された、

そこで大江氏は地理係出仕、
彈は御用係りといふことで
何れも民部省の役人となつた。

こゝで一寸(ちよつと)一言したいのは
明治四年五月に民部省が彈直樹即ち
元の彈左衞門を民部省御用掛として採用したことである。

純理論から言はば政府が人を採用するに方つて
其の出身の如何によつて採否の手加減があつては
ならぬことは何人も知つてゐることではあるが、
何事も理論と實際との間に多少の距離は免れない、

殊に大政維新を距る僅かに三年、
つい先日までエタ頭だとか
何とか云はれてゐた人を
何の毛嫌いもせず任用したことは
大政一新を標榜する明治政府の措置としては
當然のことではあるが、
併し明治維新を距ること
六十年に垂々(なんなん)とする今日に於てすら、
尚は且つ地方によつては吏員職員の任用に當り、
其の出身の如何によつて採否の手加減ある
官公署 會社 工場等が無いとは限らぬといふ
遺憾な噂を耳にすることから考へて、
私は彈の任用を以て
明治政府の一大英斷と感嘆せざるを得ないのであります。

大江氏は單に此の賤稱廢止に盡力されたのみならず、
翌 明治五年
神奈川縣權令時代
偶(たまたま)ペリユー國の汽舶マリア・ルーズ號で
支那人二百三十一名を奴隷として
本國に連れ歸る途中
横濱に寄港中この怪事實を知り、
副島外務卿の旨を受けて正義人道の爲めに
萬難を排してこれが解放を斷行し、
其の後 國事犯にて囹圄(れいご)の身となつたが、
憲法發布の大典によつて赦(ゆる)され、
晩年には帝國公道
會を興して

氏が壯年時代
賤稱廢止の努力と照應したる
實質的融和の徹底の爲めに
圓頂黑衣の姿となつて
全國を行脚(あんぎや)し
涙ぐましいまでの働きをされたのであります、
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〔写真〕大江卓 小野梓『酒井南嶺伝』p138:下記

筆者も氏の行脚に隨行した一人であるが、
其の事績は維新前後の運動とは切り離して
別の機會に述べることに致しませう。
大正十五年八月十八日初版發行
昭和 五年九月十五日三版發行
(定價金十錢)
發行人 赤堀郁太郎
    東京市麴町區大手町社會局構内
    財團法人中央融和事業協會常務理事
印刷人 稻葉仁三郎
    東京市牛込區早稻田鶴巻町二六〇
印刷所 有文社
    東京市牛込區早稻田鶴巻町二六〇
發行所 財團法人中央融和事業協會
    振替口座 東京七〇〇八六番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月25日 07:52 ◆小野梓 大江卓
《土佐宿毛の教育者 酒井南嶺》『酒井南嶺伝』昭和63年発行
〔写真〕大江卓 小野梓
大江卓(天也ト号ス)酒井ノ親戚
小野梓(次女墨子 三女安子とともに) p138
※小野墨子(小野一雄の実祖母)
 小野安子(父・小野又一の養母)
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