丹波路茶産地の跡を訪ねて【京都府茶業史】昭和10年

【京都府茶業史】昭和10年
 (五)丹波路茶産地の跡を訪ねて p271-272/291
茶業勃興時代の足跡を辿つて見ると
丹波丹後地方も到る處に茶業組合の設けがあり
自然に茶業殖産の奬勵が行はれたものであるが、

就中 船井郡の園部 須知 檜山界隈と、
何鹿郡綾部地方並に
天田郡東部 菟原方面を中心とせる地帶が
最も隆盛をなしてをつたのである、

而も船井郡の茶業は一際豪勢を示したもので
茶の品質も相樂郡地方のもと匹敵してをると云はれ、
價格も常に山城南部に競爭を試みたほどであつたから
從つて品質の改良 産額の增進が叫ばれたもので、
當時の船井郡は茶圃 數百町歩
組合員 一千名を超ゆると云ふ素晴らしい盛況を來し、
何と云つても兩丹地方に於ける
主要産地であつたことは云ふまでもない。

記錄に乏しい同地方の情勢を探るべく
編者は一日 同地方の古老山内寛治郎翁、 ※別稿に記載
竹下利三郎氏を半國山麓の高原村字豐田郷に訪づれた、

山内翁は明治二十年以降久しく
同郡茶業組合の長として盡瘁した人で、
同二十二年 市町村制の實施と共に村長に擧げられ
軈ては府會議長の榮職にも就いた
地方切つての名望家であり、

竹下氏は其後を承けて現在に恪勤精勵克く
同地方の爲に盡されて居る功勞者である、

曰く
「記錄が殘つてをる筈ですが
 數代の組長交迭を見る中に
 散逸して仕舞つたのは殘念です、
 されば數字的に考證して お話することが出來ず
 斷片的記憶によらなければなりま
 せんがと冒頭した、

 當時(明治十七年茶業組合の創設頃)
 本郡の茶業は中々成大なものでした、

 本郡は昔から觀音峠を境界として
 東西の兩部に分れ
 何ごとも競ひ合つて行くといふ風習があり、
 地方自治も之に基いて行はれたものが多い、

 之は始め藩領の關係もあつて
 東部は全く園部藩の支配を受けてをるに引かへ

 西部の多くは檜山に居を構へた
 柴田七九郎の旗本領と
 なつてをつたからでもあらうと思はれる、

 此の兩部が村々相誡め合つて行くといふことは
 確かに一つの良風美俗で、
 本郡産業の發達も此處に起因するものがあるとも云へる、

 本郡の茶業と云へば
 本村(豐田村)が郡内一の主要産地で
 製茶産額の大半は常に本村が占めてをつたのです、

 そういふ關係から組合長なども
 初代の山下寅之助氏も本村の人であり、
 次に私(山内)が選ばれ
 後には竹下君が長く就任されると云ふ有樣で、
 茶業上から云ふ豐田郷は何時も
 郡内に權勢を張つたものです、

 事務所は地理上の關係もあり
 主として須知村に置いたが
 役員は東西兩部から集つたものです、

 尚本郡は丹波路に珍らしい
 國寶とされた古刹が六ケ所もあつて
 歷史的にも異彩を放つてをるのですが
 産業に於ても養蠶なども早くから行はれてゐます、

 併し茶業勃興時代に入つては
 養蠶などは迚も比ぶべくもあらずでした、
 郡内 百五十部落を十七小部に區劃した
 茶業組合を組織して統制を計つたものです、

 而も當地方の茶は山城方面と違つて
 貿易を主としたものですから
 驛傳組合を設けて運輸の上に緊密な連絡をとり、

 紅茶傳習所も他に卒先して
 伏見に設けられると同時に設置するといふ狀態で以て
 茶業發達の機運を招來したものです、

 私(山内)は當時 丹波から選ばれた唯一人の
 中央會議所議員であり、
 神戸に製茶試驗場が開かれると
 常議員に擧げられたほどで
 當時の本郡は確かに兩丹地方に於て
 他の追從を許さないものがあり、
 之によりても當地方が
 如何に茶業に關心を持つてをつたかといふ
 其の一片を知つて下さることが出來ると思ふ、

 現在の本郡組合員は僅かに八十名となり
 從つて茶園の荒廢したものが多いが
 榮枯盛衰は常に歷史が繰り返へしてをり、
 目下養蠶業の前途にも暗影を投げつけられてをるから
 本年の如き情勢が續くとせば
 或は再び茶業の隆昌を喚び起す時代が來るかも知れず
 豫測し能はざるものがある、

 今五十年を回顧して
 轉た感慨を新にするのみです」
と語つた。

高原村とは此の地方の高臺地帶を
其まゝに云ひ表はした名稱らしい、

此の高原地帶の土質は押しなべて
茶の最好適地とはいへぬが、
それでも須知農學校のあたりには
目下 學校施設になれる茶園が設けられて
品質も可なり良好のものが出來つゝある樣である、

但し之れは 肥料勞力等のバランスを精査せない限り
一般産業としての價値を論ずる事は出來ぬが、
よし試作にもせよ年々茶業の合理化を
地方の學校に於て研究されつゝある事は
斯業の前途あるを意味するものであり、

目下 檜山地方にも茶業再興の特志家が出で
大に唱導されつゝあるといひ、

更に昭和九年度に於ける兩丹地方の茶園新植地は
南桑田郡篠村・曾我部村・
船井郡檜山村高原村
何鹿郡綾部町・中郡長善村・
竹野郡彌榮村の各地方に亙りて企劃され、
來る十年度に於ては熊野村・神野村・
中郡三重村・常吉村・竹野郡竹野村・
與謝郡養老村・本庄村・何鹿郡吉美村・佐賀村・
船井郡下和知村・胡麻村等にも
新植茶園の計畫が着々準備されつゝあるといふから
他の産業との關係上久しく衰頽の狀況に在りし
兩丹地方も將來は茶業振興地として
期待すべきものが決して少なくないと思はれる。
昭和十年四月十五日印刷
昭和十年四月二十日發行
著作者 安達披早吉
    京都市上京區紫竹芝本町
發行者 京都府茶業組合聯合會議所
    代表者 會 頭 渡邊辰三郎
    京都府久世郡宇治町
印刷者 内外出版印刷株式會社
    代表者 取締役 須磨勘兵衞
    京都市下京區西洞院七條南
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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