《緒方正淸君》
明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立
【諸家稜々志】大正4年
明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立
【諸家稜々志】大正4年
【諸家稜々志】大正4年
《緒方正淸君》 p242-243/262
現住所 大阪市東區宰相山町
電 話 東四〇八番
君は醫學博士にして、
緒方婦人科病院長兼院主なり。
元治元年七月二十一日を以て、 ※1864年8月22日
香川縣讃岐國綾歌郡瑞岡村國分に生る。
幼にして聰明怜悧、
夙に鳳卵の譽れ高く、
將來に於ける出群の大器を以て尠からず
郷閭に囑目せらる。
明治二十年(1887)東京帝國大學醫科大學別課を了へ、
同年(1887)直ちに歐洲に留學し、
獨逸フライブルク・エーナ・ベルリン大學及び
墺國維納大學にて、 ※墺國(オーストリア)維納(ウィーン)
婦人科醫學を專攻し、
斯學の蘊奥を究め以て
二十四年(1891)五月ドクトルの學位を受け、
翌二十五年(1892)歸朝し、
同年(1892)四月緒方病院婦人科長となり、
翌二十六年(1893)以來
醫術開業試驗委員、産婆試驗委員たり。
而して君は、
三十五年(1902)七月
東區今橋三丁目十八番地に於て
緒方婦人科病院を設立し、
獨力之が經營の重任に當り、
三十八年(1905)醫學博士の學位を受け、
四十二年(1909)萬國政府委員として
ブタペスト府に派遣せられ、
翌四十三年(1910)三月より大正二年(1913)三月まで
大阪市醫師會長たり。
尚且つ同二年(1913)七月より翌年(1914)五月まで
大阪府醫師會長の榮職に就き、
尚ほ明治四十五年(1912)六月より
大阪府衛生會副會頭たり。
且つ四十四年(1911)二月より
大阪市
産婆會長たりて、
亦四十三年(1910)七月より大正二年(1913)まで
大阪市會議員の公職を勤む。
而も君は、
明治二十六年(1893)より助産婦敎育所を創立し、
以て今日に及ぶ。
君の學界並に社會公共の爲めに
裨益貢獻したる功勞功績や、
積んで山を成し、
殆ど枚擧に遑なきのみならず、
其の深遠該博なる學識、
卓越精妙の技倆、
加ふるに玲瓏玉の如き高潔なる人格は
世の珍とするところにして、
亦我が大阪の誇りの一とするに足る。
尚ほ君の名譽に、
「日本婦人科史」「婦人家庭衛生」「初生兒發啼術」
「社會的色慾論」「婦人科手術學」「富山縣奇病論」
「硬性放射線學」等其の主なるものにして、
共に廣く世に行はる。
大正四年八月三十日印刷
大正四年九月 三 日發行
定價金五圓
編輯者 商工重寶社編輯部
發行者 今北治策
大阪市西區本田二番町六番地
印刷者 大原一雄
大阪市東區南農人町二丁目四番地
發兌元 商工重寶社
大阪市西區本田二番町
電話 長 西一二三七番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年03月01日 07:55 ◆小野安子
《緒方とら子:醫學博士 緒方正清夫人》
【婦人宝鑑. 大正12年度】
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