吉弘茂義、高橋健三【堺利彦伝】大正15年
【堺利彦伝】大正15年
四 吉弘茂義、高橋健三 p90-92/182
そうする中、私等の桃谷時代が過ぎて、曾根崎北野時代が來た。
天囚〔西村天囚〕氏が曾根崎に移り、
欠伸〔本吉欠伸〕もすぐその側に移つた。
霞亭〔渡邊霞亭〕氏、
紫芳〔加藤紫芳〕氏等も皆な其の邊に居た。
そして私も北野の長家に住んだ。
北野にはその頃、『鶴の茶屋』だの、
『九階』だのといふ遊園地があつたりして、
面白い郊外の土地だつた。
その『九階』の、枝垂柳の多い園の内に
吉弘茂義(白眼)君が住んでゐた。
吉弘君は『文士』でなかつたが、
新聞だの雜誌だのの計畫屋で、
兄だの私だのとは自然懇意になつてゐた。
色の白い、奇麗な痩せぎすな小男でありながら、
吉弘君には何となく親分肌があつた。
ちよかちよかした才子の樣で、
而も、大膽な、機敏な、親切な、熱心な所があつた。
自分が親と妻子とを養ひかねて居りながら、
困つた文士連を庇護するといふ態度を忘れなかつた。
私とは近所でもあり、同年でもあり、
直ぐに大の仲好しになつてしまつた。
その頃わたしは、
春先になつて羽織といふものを持つてゐなかつたが、
吉弘君の只一枚の飛白の袷羽織が、
少々肩行は合はないながら、
屢々私の背にも着られてゐた。
つまり吉弘君と私と、
二人で一枚の羽織を使用してゐたのであつた。
吉弘君と私とは又、
米の使用に於いても常に共通であつた。
卽ち、吉弘君が米の一斗も買つて居れば、
私が直ぐに行つて其の中から二三升も借りて來る。
そうかと思ふと又、
私の家に米が五升しかない時、
吉弘君が來て其の中から一二升も持つて行くのであつた。
(この吉弘君が今は大阪に有名な新聞社長であり、大紳士である。)
右は多分、
明治廿七年(私の廿五歳)の春だつたと思ふが、
その時、私は計らずも新聞記者の地位を得た。
今度も矢張天囚氏の世話だつた。
而も天囚氏は其の話をまとめてくれて、
いよいよ明日、
社長の藪廣光氏に會ひに行けと云つてくれたと同時に、
紬の袷羽織を一枚、
私の家に持たせてよこしてくれた
それは私がねだつたわけでも何でもないが、
吉弘君との共同使用物以外、
私が羽織といふものを持つてゐない事を
天囚氏が知つてゐて、
その前晩、奥さんを古着屋にやつて、
わざわざ私の爲に買はせてくれたのであつた。
この新聞は『新浪華』と云つて、
前に記した新聞の後を繼いで、
其の同じ家屋機械を使用したものではあつたが、
經營者は全く別であつた。
社長の藪廣光氏は熊本人で、
佐々友房氏の子分であつた。
つまり『新浪華』は國民協會の機關誌であつた。
大正十五年九月一日印刷
大正十五年九月三日發行
堺利彦傳
定價 壹圓九拾錢
著 者 堺 利彦
發行者 山本 美
東京市芝區愛宕下町一丁目一番地
印刷者 松井 勇
東京市芝區愛宕町二丁目一番地
發行社 改造社
東京市芝區愛宕下町一丁目一番地
振替口座 東京八四〇二番
電 話 銀座四五五八番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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