《高田畊安》君:
 東京東洋内科醫院:
 南湖病院長
【現代加佐郡人物史】大正6年

《増山守正》二男
《増山説道》子孫
《高田竹子》母:七世高田久兵衛の長子高田畊安氏の孫女

【現代加佐郡人物史】大正6年9月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923555/95
《高田畊安》君 p18/97
醫學博士
東京東洋内科醫院 兼
南湖病院長
東京市麹町區三番町

氏は文久元年八月十九日 ※1861年9月23日生
綾部藩士増山守正氏の二男に生れ
幼名を復齋と稱せり、
祖先は藤原鎌足の後裔にして
丹後田邊藩の首席家老
増山説道先生の子孫にて
説道先生の墓碑は天台寺に存せり

母は高田竹子にて
加佐郡中筋村字京田
高田久兵衛氏の    ※九世高田久兵衛
前々代久兵衛氏の   ※七世高田久兵衛
長子高田畊安氏の孫女にて
畊安氏は醫を志し家督を弟に譲りて
自ら分家せり
以來醫を業とせること四代

氏は明治四年       ※明治4年(1871)
高田家の養子となり
畊安を襲ひ醫業に從事する事となりたり、
年十六歳即ち明治九年   ※明治9年(1876)
笈を京都に負ひ
京都府醫學豫備校に入り
同十二年卒業、      ※明治12年(1879)
直に京都府醫學校(當今:醫學専門學校)に入り
十七年卒業同年      ※明治17年(1884)
東京大學豫備門分黌(當今:第一高等學校)
全科の試験に及第し
同年東京大學醫學部に入学 ※明治17年(1884)

二十三年         ※明治23年(1890)
東京帝國大學醫科大學卒業以來
同大學内科教室に助手たりしこと六ケ年
此間看護學講師を兼ね、
醫學校在學中は書籍器械掛を嘱託せられ

明治二十七年には     ※明治27年(1894)
東京醫學會、國家醫學會、學士會を代表し
慰問使として香港に靑山博士等を慰問し、

且亦明治二十五年より   ※明治25年(1892)
東京濟生學舎内科講師を担當せり、

明治二十九年       ※明治29年(1896)
大學助手辭任
東京に東洋内科醫院と稱する病院を創立し越へて

三十二年         ※明治32年(1899)
神奈川縣茅ヶ崎町の海濱に
南湖院と稱する病院を創立し
共に其長として現在に至れり、

然るに日進月歩の醫術は尚氏をして満足せしむるに至らず、
明治四十四年、五の兩年  ※明治44年(1911)
氏は伯林(ベルリン)大學に入りて
醫學諸科
殊に肺結核病の診療法を研究し
其れよりドレスデン市萬國衛生品博覧會を参?し

更に羅馬(ローマ)市萬國結核病學會に列し、

瑞西(スイス)ダボースの肺病診療法を視察し、
尚進んで欧州大陸に於ける宗教上及び
醫事衛生上の現状を視察して歸朝せり、

尚明治三十年以來     ※明治30年(1897)
私立看病學講習所を開き
既に二百余名の卒業生を出せり、

大正五年二月十四日    ※大正5年(1916)
第九百七十二號を以て
醫學博士の學位を授與せられたり、

資性温厚にして気品高雅、
明晰なる頭脳を有す、
其小學時代勿論大學時代の如きも
常に優等なる成績を持續し學生の模範を稱せられたり

品行方正極めて厳格にして博覧強記、
幼時麒麟兒とは彼の事かと將來を嘱目せられたるが、
實に然り、果せる哉、
同業者頗る多き東都の地に於て
一頭角を現はし赫々たる名聲を博せり、

殊に氏は熱心なる基督教信者にして
禁酒煙を堅守せるが意志極めて鞏固にして
風采、態度悠揚として?すべからざるものあり、

今日の成功を?ち得たる洵に故なきにあらざるなり、
年歯尚春秋あり
刀圭界の爲めに益々貢献を望む。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923555/18

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』