《新納竹之助》
<佛語會話 甚タ善シ>
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/2
[太政官日誌 明治六年 第九十九號] p16/197
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/16
〔文部省届書〕 六月三十日分 p18-19/197
鹿児島縣 貫屬 士族
《新納竹之助》 十八歳 p19/197
右者 慶應二年四月 ※慶應2年4月(1866年5月15日)
私費ヲ以テ佛國留學
本年五月廿六日歸朝 ※明治6年5月26日(1873年5月26日)
本月十八日 ※明治6年6月18日(1873年6月18日)
東京開成學校ニ於テ
理學教師《マイヨ》
數學教師《レピシェー》
文學教師《フォンテーヌ》ヲ以テ
其學術ヲ試驗ス
佛語會話 甚タ善シ
學科上ニ至テハ 未熟ニシテ
其學力
同校 下等中學 第二級ニ相當ノ由
申出タリ
依テ左ニ其表ヲ掲ク
試驗表
佛語 格別ニ善シ
然レドモ國語不通ニ付
和解ヲ能クセズ
算術 分數 並ニ比例式迄 研業
其餘 十分ナラズ
地理 初歩ノ部
未ダ 十分ナラズ
幾何學 平面ノ部迄 研業
其餘 十分ナラズ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/19
《新納竹之助の父》
《新納 中三》(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)
(天保3年4月15日(1832年5月15日)
- 明治22年(1889年)12月10日)は、
江戸時代末期(幕末)から明治初年にかけての薩摩藩家老。
通称の刑部でも知られる。
字は久脩。諱が中三[1]。
幼名は万次郎、のち次郎四郎、次郎兵衛。
略歴[編集]
―略―
慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。
薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を
五代友厚・松木弘安とともに引率してイギリスに渡航。
変名を石垣鋭之助と称した。
その後フランス・プロイセン・オランダ・
ベルギー各国を歴訪・視察した。
ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)の
モンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、
ブリュッセルにおいて薩摩藩と
モンブランの商社設立契約を結んだ。
また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、
翌慶応2年(1866年)に帰国した。
帰国した年、
勝手方家老に昇進して開成所を所管。
また同年、
息子の竹之助をフランスへ留学させている。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%8D%E4%B9%85%E8%84%A9
[外國教師:英語 8名:佛語 5名:獨語 4名:計17名]
【東京帝国大学五十年史. 上册】昭和7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2599585.html
<佛語會話 甚タ善シ>
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
【太政官日誌. 明治6年 第99-131号】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/2
[太政官日誌 明治六年 第九十九號] p16/197
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/16
〔文部省届書〕 六月三十日分 p18-19/197
鹿児島縣 貫屬 士族
《新納竹之助》 十八歳 p19/197
右者 慶應二年四月 ※慶應2年4月(1866年5月15日)
私費ヲ以テ佛國留學
本年五月廿六日歸朝 ※明治6年5月26日(1873年5月26日)
本月十八日 ※明治6年6月18日(1873年6月18日)
東京開成學校ニ於テ
理學教師《マイヨ》
數學教師《レピシェー》
文學教師《フォンテーヌ》ヲ以テ
其學術ヲ試驗ス
佛語會話 甚タ善シ
學科上ニ至テハ 未熟ニシテ
其學力
同校 下等中學 第二級ニ相當ノ由
申出タリ
依テ左ニ其表ヲ掲ク
試驗表
佛語 格別ニ善シ
然レドモ國語不通ニ付
和解ヲ能クセズ
算術 分數 並ニ比例式迄 研業
其餘 十分ナラズ
地理 初歩ノ部
未ダ 十分ナラズ
幾何學 平面ノ部迄 研業
其餘 十分ナラズ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787664/19
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
《新納竹之助の父》
《新納 中三》(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)
(天保3年4月15日(1832年5月15日)
- 明治22年(1889年)12月10日)は、
江戸時代末期(幕末)から明治初年にかけての薩摩藩家老。
通称の刑部でも知られる。
字は久脩。諱が中三[1]。
幼名は万次郎、のち次郎四郎、次郎兵衛。
略歴[編集]
―略―
慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。
薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を
五代友厚・松木弘安とともに引率してイギリスに渡航。
変名を石垣鋭之助と称した。
その後フランス・プロイセン・オランダ・
ベルギー各国を歴訪・視察した。
ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)の
モンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、
ブリュッセルにおいて薩摩藩と
モンブランの商社設立契約を結んだ。
また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、
翌慶応2年(1866年)に帰国した。
帰国した年、
勝手方家老に昇進して開成所を所管。
また同年、
息子の竹之助をフランスへ留学させている。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%8D%E4%B9%85%E8%84%A9
[外國教師:英語 8名:佛語 5名:獨語 4名:計17名]
【東京帝国大学五十年史. 上册】昭和7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2599585.html