《小野英之助の実父:英海軍のA.G.S.ホース大尉》
《小野英之助の実父:アルバート・ジョージ・シドニー・ホーズ》
《小野英之助の養父:小野義真》
鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」
2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その2
2008-11-19 06:28:10 | Weblog
『横浜周辺外国人遊歩区域図』を作成したのは、
英海軍のA.G.S.ホース大尉。
このホース大尉は、後に、あの有名なアーネスト・サトウとともに、
『日本の中部・北部旅行案内』を編集した人物だという。
この区域図が作成された年代は、
1867年(慶応3年)末か
翌年(1868年・明治元年)初頭のことであるらしい。
作成者である「A.G.S.ホース大尉」については、
『明治日本旅行案内 東京近郊編』
(アーネスト・サトウ編著・庄田元男訳:東洋文庫/平凡社)の
解説(庄田元男)に、その略歴が触れられています。
それによると、「A.G.S.ホース」とは
アルバート・ジョージ・シドニー・ホーズ
(天保12年(1842)~明治30年(1897))のこと
(ということは、この区域図を作成した時、
彼はまだ25歳ほどの青年であったということになる)。
『明治日本旅行案内 東京近郊編』は、
サトウとこのホーズの共編著による。
ホーズは、英国海軍大佐であったエドワード・ホーズの息子として
1842年(天保12年)に生まれました。
英国海軍学校を卒業した後、
彼は英国軍艦セヴァーン号に乗務して東インド方面へ赴き、
ついで英国艦隊旗艦ブリンセス・ロイヤル号に移って、
英仏米蘭の四ヶ国連合艦隊の兵庫遠征(下関遠征?─鮎川)に参加。
1869年(明治2年)に自己都合で退役し、
それ以後、肥後熊本藩・工部省・海軍省に、
お雇い外国人として1884年(明治17年)まで勤務。
その後、アフリカのイギリス領ナイアサ、
フランス領ソシエテ諸島、サンドウィッチ諸島で領事となり、
1894年(明治27年)には
ハワイ国ホノルル府駐在総領事に就任しましたが、
1897年(明治30年)にヒロ島訪問中に死去。
軍葬によってホノルルに埋葬されたという。
日本滞在中はアーネスト・サトウと親交を結び、
「日本アジア協会」に所属して登山や競馬などを楽しんだらしい。
また日本の女性との間に生まれた男子は、
明治の大実業家小野義真(ぎしん)の養子になったという。
日本政府は、このホーズを日本海軍の父として評価し、
勲三等瑞宝章を与えている、とある。 ※別稿に記載
―略―
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【小野梓】明治30年(1897)12月12日発行
時に、明治廿八年二月十日東京專門學校は
一月二十七日校友大會の決議に依り、
君の十週年追悼會を同校大講堂に開き
式後牛込通寺町求友亭に其遺族を招待しぬ、
當日式場の光景は左の如し。(中央時論に依る)
『故小野梓先生十年追悼會』
―略―
廿八年二月十日正午より知音の士發企となり、
我東京專門學校、主動となり、
本校大講堂に於て莊嚴なる追悼會を營みたり、
―略―
午後一時に至るや合圖の第一鐘に誘はれて學生入場し、
第二鐘に先生の義兄小野義眞氏並に同氏の令嗣同英之助氏、
先生の令嬢、次て先生の知音にして…
開式に當り本校より郷里土佐宿毛の未亡人にあてゝ報道したる
其返電等を報告し、
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月06日 08:25 ◆小野義真 小野英之助
[小野義真の息・小野英之助と英之助の嗣子・小野鶴太郎]
[小野英之助氏](626 頁以下の写真のキャプション)
小野義眞翁の息。
明治4年(1871)生。
明治29年(1896)東京専門学校英語専修科卒業。
同年(明治29年(1896))冨山房入社。
明治38年(1905)父君義眞翁死去後退社。
明治45年(1912)2月16日歿。
嗣子鶴太郎氏は、
大正15年(1926)東大農学部卒業後直ちに帝室林野局奉職、
昭和8年(1933)退官、出版を志し、神田小川町に秋豊園を興し、
今日に至る。
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