『故小野梓先生十年追悼會』①【小野梓】永田新之允・明治30年

【小野梓】著述者 永田新之允・明治30年(1897)
  <病軀——永眠> p184-190/228
[生涯の一半]
君が生涯の一半は病軀史なり、
其幼少の頃資性羸弱なりしは嘗て記したるが如し、
而して外國に在りし頃も屢々リコメチズム發生し
大陸漫遊に出でたる事あり、
歸朝の後も虎列拉病に罹りたる事ありて ※虎列拉:コレラ
蒲柳の質は竟に治する能はず、
加ふるに君は意を攝生に用ゐずにして
過度の刻學を爲すが常なりし故
益々持病の增長を助けて、
官衙に出づるにも、
共存會館に赴くにも、
藥瓶は必ず隨伴を命ぜられ筆硯の前、
何時も其兀立して主公を護衛せるを見たりと云ふ、

[初の喀血]
明治十四年九月二十七日
君始めて喀血を病みき、其日記に曰く。
 退食の後喀血す驚て醫を迎ふ、
 先人喀血の病を以て命を終ふ、
 余の念い知るべし
 既にして緒方來り診斷して曰く ※緒方惟準
 肺膜の動作平生に異ならず
 且其血鮮紅に非ずして
 稍異色を帶ぶ是れ胃血の證也
 以て驚く勿れ、
 惟ふに君日々登衙し途遠し
 腕車の胃部を揺動し以て其血管を破りし也と、 ※腕車:人力車
 藥を投じて去る、

 余の意始めて安し
 余や前途猶ほ遠し
 平生の望未だ其十が一を酬ゐず
 然かも遽かに不治の病を懼る
 則ち其遺憾應に少なからさるべき也
 今や幸に肺部の出血に非ず
 胃部の出血は則ち其病自から輕し
 余復た何をか驚かん
君是れより痛く自ら攝養を加へて嘗て飲酒せず、
食は必ず洋饌二回を限り
數年の間其則を違へず、
常人の能くし易からさるを履行せり、
然れとも改進黨時代に至りても
猶ほ臥床黨務を見さる事數次なりしが、

明治十七年九月十三日
書店東洋館に於て事を處するの際
忽ち一咳喀血す、
即ち家に還り蓐に臥したるに又た喀血を發す、
池田國手を請ふて在らず ※池田謙齋
暫らく他の醫師をして之を療せしむ、
氷嚢を以て胸部を冷し出血を止む
而れとも終夜恍惚として寝ぬること能はず、

十月一日
池田氏來診して曰く   ※池田謙齋
是れ氣管支の迸血なりと、
是れより一月有半病蓐に在りき、

同月三日の記に曰く
熱度稍高、
然れども久しからずして散ぜん、

五日の記に曰く
又喀血す、
九日の記に曰く
此夜熱度頗る高し
殆んど華氏四十度、 ※華氏104度 摂氏40度
苦悶恍惚として寝ねず、
唯だ氷塊を欲するのみ、

二十八日の記に曰く
病輕し起て席上を歩す、

十一月一日の記に曰く
自傳志料を筆して無聊を遣る、

八日の記に曰く
感胃未だ全癒せず
閑居愛々物語の筆を始しむ云々、
此年遂に病癒へずして越歳せり、
君が改進黨掌事を辭したるは此時なりき。

明治十八年七月二日
又々喀血す
五日に再びし
十四日に三びせり
胃部冷を覺へ
膓亦攣急し
日を逐ふて激甚なり
而して國憲汎論は方に此蓐中に於て全部完成せり。
『國憲汎論』上中下巻
〔画像〕『國憲汎論』上中下巻

是れより先き五月
次兄稠松氏より態々贈藥し來れるに會し、
君同二十五日の日記に書して曰く、
稠松兄の書に接す
余が肺勞に罹りたりと訛傳し ※訛傳:誤った伝え
大に之を憂ひ贈藥し來れる也
即時書を裁して曰く
是れ訛傳也         ※訛傳:誤った伝え
微恙唯 氣管支炎耳 肺勞に非ず

[日本宰相の命を受くるに非されば則ち死せず]
梓 日本宰相の命を拜するに非されば
則ち死せず
斯精神軀躰の裏に盈つれば
病魔も亦之を畏る
阿嬢之を安んぜよと
意氣甚だ盛んなりと雖も
枯骨瘠軀追日衰弱に赴き
留客齋日記も遂に十月八日に至つて筆を絶せり。

[政府の大改革]
然るに同年十二月二十二日 ※第1次伊藤内閣
此生きたる墓の上には一大光明放射したり、
蓋し一大光明とは朝廷此日古今未曾有の大改革を行ひ、
太政官を廢して内閣十省を置き
參議伊藤博文を以て内閣總理大臣に任じ
歐洲政府の組織と其規を一にしたる是れ也、
抑も今回改革の大旨は
君が曾て國憲汎論下巻行政の篇に於て唱説せし所にして、
頗る君が年來の志望に協ひたれば
君は氣息奄々の中にも欣然として喜び
自ら禁ずる能はさりき。

翌十九年一月二日
天野爲之氏 君を錦街の病蓐に問ふ、 ※錦街:神田区錦町3丁目
君此時病殊に篤く殆んど言語に難み
纔に筆を執りて朝廷改革に對する哀情を告ぐる所
誠に此くの如くありしと云ふ、
然れとも當時未だ曾て辭世の念あらさりしなり、

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇