『故小野梓先生十年追悼會』②【小野梓】永田新之允・明治30年

【小野梓】著述者 永田新之允・明治30年(1897)

[一月十一日]
而して同月十一日溘焉 ※明治19年1月11日
として遂に簣を易ふるに至れり、
嗚呼萬物空寂、千古已んぬ、悲哉。

君既に逝く矣、
親戚故舊之を聞て慟哭哀悼せさる者なし、
同月十四日遺柩を奉じ錦街の宅を出で ※錦街:神田区錦町3丁目
谷中の墓地に葬むる、
會する者無慮千餘人亦た盛なりと云ふべし、
君歿する時歳正に三十五、
若し天生を假さは
有爲の時期は益々是れより盛んならんとし
政海の新潮流は幾多の君を要すべきに空しく、
願入院釋東洋居士の法號の下に瞑するに至る、
噫悼しゐ哉、

一二二回忌 法要
二〇〇七年三月十日 午後二時
願入院釋東洋居士 小野 梓先生 一二二回忌 法要
施主 早稲田大学
※平成19年(2007)3月10日 宿毛市 清宝寺
〔画像〕一二二回忌 法要

願入院釋東洋居士
〔画像〕願入院釋東洋居士

東洋小野梓之墓
東洋小野梓之墓
早稲田大学創立九十周年の歳
昭和四十七年十月
  早稲田大学建之
〔画像〕東洋小野梓之墓

[二男三女]
君曾て小野義眞氏の妹利遠を娶り二男三女を生む、
曰く義男夭す ※明治9年3月生 明治9年5月歿
曰く鐵麿夭す ※明治14年9月生 明治15年6月歿
曰く橡夭す  ※明治10年4月生 明治11年3月歿
曰く隅(墨) ※明治11年10月生 昭和22年2月歿
曰く安と、  ※明治16年9月生 昭和41年4月歿

二男三女
〔画像〕二男三女

而して當今此兩子の内
一は高知に在郷し、           ※小野安
一は橋場なる小野氏の邸に寄寓すといふ。 ※小野墨
 ※橋場町1380番地 小野義眞邸

[島地氏の追悼]
同年二月十三日 島地默雷氏 ※明治19年2月13日
會主となり舊友を集同して追悼會を
麴町區中六番町の白蓮社に開く、
會する者十數人、
氏時に追懐の詩あり、
蓋し君が國憲汎論に題せる待花の韻に次せるものなり。
  料峭寒殘春信遲。 多情久待百花期。
  花期未到身先死。 泣讀留題新著詩。
其後一年有餘にして左の報告書は君の遺友に依て頒付せられぬ。

[建碑の擧]
 拜啓陳者小生等發起募集いたし候
 故小野梓氏建碑義捐金
 幸に諸君の賛成を得て左の金額に相達し候に付
 即ち碑石買入の上
 兼て中村正直君に撰文を
 大内靑巒君に揮毫を乞ひ置候碑文を
 宮龜年氏に彫刻相託し出來の上
 小野氏の故郷土佐國宿毛郷へ建設いたし
 又殘金を以て五姓田芳柳氏に托し
 油繪一面を畫かしめ
小野梓肖像 五姓田芳柳画
〔画像〕小野梓肖像 五姓田芳柳画

 小野氏生前關係薄からさる
 東京專門學校へ寄附いたし候事に取計ひ候に付
 右碑面摺物一葉及計算書相添此段及御報告候敬具
   發起人
  石上北天   加藤瓢乎   箕浦勝人
  林 包明   高田早苗   島田三郎
  尾崎行雄   牟田口元學  島地默雷
  岡山兼吉   前島 密   末廣重恭
  大隈英麿   增島六一郎
  大内靑巒   北畠治房
義捐金額三百四十九圓三十八錢にして
義捐者大隈伯以下百有餘名なりき、
乃ち之れに依つて成されたる碑文は左の如し。
[碑 文]
 從五位小野梓君碑
     元老院議官從四位中村正直撰

小野梓君碑:中村正直譔
〔画像〕小野梓君碑:中村正直譔

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 [小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」
 [小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」

 明治二十年丁五月
   從三位勲一等伯爵大隈重信篆額
      大内靑巒書  宮 龜年刻

嗚呼天王寺畔永眠の夢既に十星霜を經過し、
花披き葉落ち春去り秋來り
人事天時の變移今の如くにして亦た昨の如し、

[十週年追悼會]
時に、明治廿八年二月十日東京專門學校は
一月二十七日校友大會の決議に依り、
君の十週年追悼會を同校大講堂に開き
式後 牛込通寺町求友亭に其遺族を招待しぬ、

當日式場の光景は左の如し。(中央時論に依る)
『故小野梓先生十年追悼會』
本校創立に最も與て力多き
本校の恩人故東洋小野先生は稀世の才と
和漢洋の學とを兼ね
身蒲柳の質を以て國事に鞅掌するの傍ら
著述と靑年の訓導とに赤誠を罩め、
官に在ては會計撿査院を起し、
野に下ては共存同衆
令智會立憲改進黨の創立に與り、
大隈伯爵の信任最も深く
伯が我東京專門學校の基を開くや、
先生大に努むる處ありしが天、
先生の睿智を嫉みてか年を假す、
僅かに三十五歳にして
去明治十九年一月十一日溘然遠逝せられ、
谷中天王寺に葬る、
法號を願入院釋東洋居士と稱ふ、
烏兎匇々、
先生去て茲に十年、知友
盍ぞ先生を忘れんや、

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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