『故小野梓先生十年追悼會』③【小野梓】永田新之允・明治30年

【小野梓】著述者 永田新之允・明治30年(1897)

廿八年二月十日正午より知音の士發企となり、
東京專門學校、主動となり、
本校大講堂に於て莊嚴なる追悼會を營みたり、

此日惠風和暢、大講堂の樓下を來會者の休憩室に充て、
室内に老松其他珍奇の盆栽、參差陳列し、

鳩山、高田、天野、市島、田原諸氏
其他校友會幹事たる黑川九馬、田中唯一郎、吉田俊雄、
增田義一、細野繁莊、永島富三郎、高木守三郎の諸氏
接待の任に當る

又 樓上の式場には正面に三階の佛壇を飾付け、
先生の半身油繪額を安置し、
其後ろには石摺の碑文、
兩側には眞蹟
「民者國之本吏者民之雇」と
民者國之本吏者民之雇
〔画像〕民者國之本吏者民之雇

「欲暖猶寒節序遲、朝々屈指數花期、
 花期未到意先到、爲賦墨江春色詩、」
小野梓著「待花」
〔画像〕小野梓著「待花」

と云ふ待花の題にて國會開設の遲きを嘆したる詩の軸を懸け、

靈前には遺著「國憲汎論」「民法の骨」「東洋論策」を供へ、

「國憲汎論」「民法の骨」「東洋論策」
〔画像〕「國憲汎論」「民法の骨」「東洋論策」

其他蘋蒭を捧け、
左方は遺族席並に來會者席に充て、
前面及右方は學生席と定む、

軈て
午後一時に至るや合圖の第一鐘に誘はれて學生入場し、
第二鐘に先生の義兄小野義眞氏並に同氏の令嗣同英之助
先生の令嬢、 ※小野墨
次て先生の知音にして嘗て導師に立ちし、
築地西本願寺内 眞光寺住 多田賢住氏は
石上北天氏 外三名の僧侶を伴ひ續て
伯爵萬里小路通房、子爵松平信正、
前島密、島田三郎、尾崎行雄、犬養毅の諸氏を始め
校友、改進黨、學生を併せて千有餘名相會したれは
さしもに廣き講堂立錐の餘地なし、

午後一時半
市島謙吉氏開式の辭を述べ、
次に讀經四十分餘に渉り、
其より我東京專門學校代表者 市島謙吉氏、
校友會總代 天野爲之氏、
學生總代 佐藤勇吉氏、
何れも追悼文を朗讀し、
次に大隈伯爵より寄せられたる追悼文を
左納岩吉氏朗讀し、
淺香克孝氏 立憲改進黨を代表して追悼文を朗讀し、
次に知音を代表して島田三郎氏の追懐の演説あり、
其より遠く書を寄せられたる山田一郎氏の演説文を
黑川九馬氏代讀し、
田中唯一郎氏は各地の知友より寄せたる追悼詞、
及 電音並に開式に當り
本校より郷里土佐宿毛の未亡人にあてゝ報道したる
其 返電等を報告し、 ※小野利遠:坂本利遠
學生某氏の演説あり、
後ち一同焼香し終て全く閉式を告ぐ、

當日來會者一同に頒ちたるは
先生が十數年前二才餘の愛兒を膝に抱き、※小野安
五六歳の令嬢を左側に寄添へるたる   ※小野墨

 写真[小野梓・墨・安]
 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 《大隈侯の思い出:小野安》
 [巨人の面影]丹尾磯之助/大隈重信生誕百二十五年記念
 《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校 本科
  明治29年3月卒業【官報. 1896年03月26日】明治29年

寫眞版及
先生自傳史料中の一節
「宿毛に歸りし後は熟々思ふよふ斯く藩廳の束縛を受くるは
必竟帶刀の身にて士分の列に在れはこそ然るなり、
されは兼て東京にて考へたる如く
今より士格を辭し平人と為し
この身を自由にするこそ今日の上策なりと
或る日其由を萱堂家兄等に話し
平人の願を出すことに爲したりき
然るに伊賀氏は之れを聞き届けなき爲め
據なく他家へ養子に往く躰にて
平人と為りたりき
この平人に爲る事に就きては人々大抵その
短氣なるを戒め今時は平人でさへ士格に成りたく思ひ
脇ざしの一本も差し度思ふ世の中なるに
態々帶力を抜き捨て平人と為るとは
誠に心得違ひなる由をさゝやきたれとも
我は少し見る所あれは
しはし我の心にまかせ呉かしと
堅く乞ひ
遂に平人とは成りにき」
の眞筆を併せて石版にしたる摺物と

「小野先生追悼」
と印たる菓子を配れり、

嗚呼天何ぞ無情なる、
當日頒布したる寫眞中
先生の左側に寄添へたる五六才の小女は遺族として
式場に臨まれたる令嬢ならんとは、
當日 令嬢が文章演説を聽き追慕の情に堪へさる狀を覗ひ
滿座暗涙を催さゝるはなかりき、
小野墨(17歳)女子高等師範學校 附屬高等女學校在学中

來會したるは左の如し
 多胡貞三郎   臼田甚八郎   坂本嘉次馬 ※坂本嘉治馬
         門馬尚經    小山愛治
 高根義人    高田早苗    今井鐵太郎
         高田貢平   (早苗氏嚴君)
 前島 密    鳩山和夫    並木覺太郎
         田原 榮    島村瀧太郎(島村抱月)
 池谷一孝    谷和一郎    古賀一基
         天野爲之    田中正造
         森脇 萬    淺香克孝
 島田三郎    山澤俊夫    首藤陸三
         尾崎行雄    波多野傳三郎
 鹽澤昌貞    犬養 毅    長谷部繁三郎
         町田熊雄    若林成昭
 關口又四郎   高橋至誠    齋藤順三
         小原金治    昆田文治郎
         久保良平    鹿島秀麿
 漆間民夫    松本義弘    高田卓爾
         鹽入太輔    橋本久太郎
 松島廉作    島田孝之    佐藤伊三郎
         廣住久道    能勢■二 ※津の下に土。
 儘田甚太郎   種村宗八    若代秀明
         大谷順作    左納岩吉
         高木守三郎   米田 精
 永島富三郎   黑川九馬    細野繁莊
         增田義一    吉田俊雄
         佐藤 靜    吉川義次
 光信壽吉    二宮育次郎
 其他校友及學生等なり

式後午後四時より牛込通寺町求友亭に遺族を招待し
會場に先生遺墨
「白砂千里淡斜暉、獨跨駱駝行更遲、乃兒河水洋々外、
 影聳尖塔古帝碑」の埃及口占の詩を懸く ※埃及:エジプト
埃及口占
〔画像〕埃及口占

來會する者 五十有餘名市島氏開會の詞を述へ、
次に增田義一、小山愛治、黑川九馬、田中正造の四氏は
交々立て最も莊嚴の辯と感慨の辭を以て先生の往時を演説し、
終りに高田早苗氏は悲愴の語にて
先生は予の最も親昵する所
而して先生兄
たれば予は弟たり、

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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