《桐原真節:桐原玄海=花岡真節》
《大崎淳吉:履歴書》
《大崎淳吉》
〔履歴書〕
[元山津領事館付医院ヲ廃シ開業医ヘ補助金ヲ給シ同港ヘ派出ノ件]
同九年(1876)五月ヨリ同年(1876)十月迄
東京下谷徒士町
《桐原真節》ニ就テ
生理學・藥劑學・病理學、修業
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2630091.html
《桐原真節:桐原玄海=花岡真節》
永松東海《東京司藥場長―明治7年1月~8年1月:東京大學 醫學部教授》
【官員録】明治2年6月】
醫學校 p13/51
一等教授
二等教授 坪井芳洲 p13/51
島村鼎甫 p13/51
石井謙道 p13/51
司馬凌海 p13/51
三等教授 田代一徳 p14/51
桐原玄海 p14/51
兼 舎長 足立三郎 p14/51
同 永松東海 p14/51
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885649/14
【官員録. 明治7年毎月改正】
○文部省 大手町二丁目 p75/170
六等出仕 正七位《桐原眞節》 シヅヲカ
《永松東海》 サガ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779236/76
【東京大学医学部一覧. 明治13,14年】
第十八章 綜理 敎員 姓名 p94/165
敎員
―略―
外科臨床講義 敎授 《桐原眞節》 東京府士族 p95/165
―略―
内科臨床講義 兼 醫員 助敎 《岡 玄鄕》 東京府平民 p95/165
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813141/95
【山谷徳治郎戯筆集】
昭和16年5月26日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094550/16
第四話 花岡眞節 大に患者を叱す p7/18
故大學敎授《花岡眞節》は慷慨の士なり、
常に日本醫學の泰西に及ばざるを慨し、
且御雇外國敎師の傍若無人なるを憤る。
《眞節》曾て外來の患者を診するとき、
一患者の外國敎師の診察を受けんが爲に至るものあり。
患者《眞節》の診察所を外國敎師の診察所と誤認し、
院丁に誘れて室に入る、
而して醫師の外國人ならざるを見て、
思はず院丁に告て曰、
吾は今日外國敎師の診察を受けんが爲めに來るもの、
請ふ更に外國敎師の診察所に導けと。
《眞節》是を聞き大喝一聲して曰、
咄何者の痴漢そ
堂々たる日本の《花岡眞節》を知らすやと。
患者大に其權幕に懼れ、
終に《眞節》の診を受く。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094550/7
《花岡真節(はなおか まふし/しんせつ)》
天保10年8月28日~明治17年10月7日(1839-1884)
将軍侍医。
父、静岡県士族花岡吉次郎。
信濃国筑摩郡里山辺村(長野県)出身。
17歳で江戸に出て桐原鳳卿に師事。
林洞海・大村益次郎・坪井信道と親交を持つ。
22歳のとき桐原鳳卿の養子となる。
―略―
明治14年(1881)花岡姓に戻る。
―略―
http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/hanaokaMafushi.htm
[平成16年11月15日 東大病院だより No.47]
〔写真:桐原(花岡)眞節 初代院長の肖像〕
東大病院初代病院長・桐原眞節先生
天保10年(1839)~明治17年(1884年)略歴
天保10年信濃岡山辺村に花岡吉次郎の子として生まれた。
江戸に出て、桐原鳳郷の門に入り医学を学んだ。
―略―
明治維新後は、東大医学部が誕生する前の大学東校教授に就任した。
明治10年、東京大学が設立されるとともに東京大学教授となり、
かつ完成したばかりの附属病院第1医院の院長となった。
明治13年に外国人教師のベルツ教授らとともにと
東京神田弘医会を設立し我が国医学知識の普及に貢献した。
明治15年、花岡姓に復した。
明治15年から17年まで東大病院の院長として活躍した。
明治18年、47歳で死去。
お墓は谷中の天王寺にある。
http://www.h.u-tokyo.ac.jp/vcms_lf/dayori47.pdf
[幕末から明治初期における医学教育]
[神谷敏郎 東京大学総合研究博物館]
3 医学部発足当時の教授陣と教科目
―略―
明治10(1877)年東京大学発足時における
医学部本科の教授は次の通りである。
―略―
解剖学=田口和美、生理学=大沢謙二、
病理学=三宅秀、薬剤学=樫原清徳、
外科総論=桐原真節・赤星研造、製薬学=柴田承桂。
―略―
5 ポンペ持参の頭蓋骨
―略―
学科担当は、松本良順頭取自ら内科、
次に坪井芳洲(為春)薬剤学、
島村鼎甫(鼎)生理学、石井謙道(謙)病理学、
桐原玄海(真節)解剖学、
外に助教授は足立寛(藤三郎)蘭学理化学、
田代一徳(基徳)蘭学数学を各受け持ち、
―略―
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/02/20300.html
《大崎淳吉:履歴書》
《大崎淳吉》
〔履歴書〕
[元山津領事館付医院ヲ廃シ開業医ヘ補助金ヲ給シ同港ヘ派出ノ件]
同九年(1876)五月ヨリ同年(1876)十月迄
東京下谷徒士町
《桐原真節》ニ就テ
生理學・藥劑學・病理學、修業
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2630091.html
《桐原真節:桐原玄海=花岡真節》
永松東海《東京司藥場長―明治7年1月~8年1月:東京大學 醫學部教授》
【官員録】明治2年6月】
醫學校 p13/51
一等教授
二等教授 坪井芳洲 p13/51
島村鼎甫 p13/51
石井謙道 p13/51
司馬凌海 p13/51
三等教授 田代一徳 p14/51
桐原玄海 p14/51
兼 舎長 足立三郎 p14/51
同 永松東海 p14/51
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885649/14
【官員録. 明治7年毎月改正】
○文部省 大手町二丁目 p75/170
六等出仕 正七位《桐原眞節》 シヅヲカ
《永松東海》 サガ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779236/76
【東京大学医学部一覧. 明治13,14年】
第十八章 綜理 敎員 姓名 p94/165
敎員
―略―
外科臨床講義 敎授 《桐原眞節》 東京府士族 p95/165
―略―
内科臨床講義 兼 醫員 助敎 《岡 玄鄕》 東京府平民 p95/165
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813141/95
【山谷徳治郎戯筆集】
昭和16年5月26日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094550/16
第四話 花岡眞節 大に患者を叱す p7/18
故大學敎授《花岡眞節》は慷慨の士なり、
常に日本醫學の泰西に及ばざるを慨し、
且御雇外國敎師の傍若無人なるを憤る。
《眞節》曾て外來の患者を診するとき、
一患者の外國敎師の診察を受けんが爲に至るものあり。
患者《眞節》の診察所を外國敎師の診察所と誤認し、
院丁に誘れて室に入る、
而して醫師の外國人ならざるを見て、
思はず院丁に告て曰、
吾は今日外國敎師の診察を受けんが爲めに來るもの、
請ふ更に外國敎師の診察所に導けと。
《眞節》是を聞き大喝一聲して曰、
咄何者の痴漢そ
堂々たる日本の《花岡眞節》を知らすやと。
患者大に其權幕に懼れ、
終に《眞節》の診を受く。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094550/7
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
《花岡真節(はなおか まふし/しんせつ)》
天保10年8月28日~明治17年10月7日(1839-1884)
将軍侍医。
父、静岡県士族花岡吉次郎。
信濃国筑摩郡里山辺村(長野県)出身。
17歳で江戸に出て桐原鳳卿に師事。
林洞海・大村益次郎・坪井信道と親交を持つ。
22歳のとき桐原鳳卿の養子となる。
―略―
明治14年(1881)花岡姓に戻る。
―略―
http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/hanaokaMafushi.htm
[平成16年11月15日 東大病院だより No.47]
〔写真:桐原(花岡)眞節 初代院長の肖像〕
東大病院初代病院長・桐原眞節先生
天保10年(1839)~明治17年(1884年)略歴
天保10年信濃岡山辺村に花岡吉次郎の子として生まれた。
江戸に出て、桐原鳳郷の門に入り医学を学んだ。
―略―
明治維新後は、東大医学部が誕生する前の大学東校教授に就任した。
明治10年、東京大学が設立されるとともに東京大学教授となり、
かつ完成したばかりの附属病院第1医院の院長となった。
明治13年に外国人教師のベルツ教授らとともにと
東京神田弘医会を設立し我が国医学知識の普及に貢献した。
明治15年、花岡姓に復した。
明治15年から17年まで東大病院の院長として活躍した。
明治18年、47歳で死去。
お墓は谷中の天王寺にある。
http://www.h.u-tokyo.ac.jp/vcms_lf/dayori47.pdf
[幕末から明治初期における医学教育]
[神谷敏郎 東京大学総合研究博物館]
3 医学部発足当時の教授陣と教科目
―略―
明治10(1877)年東京大学発足時における
医学部本科の教授は次の通りである。
―略―
解剖学=田口和美、生理学=大沢謙二、
病理学=三宅秀、薬剤学=樫原清徳、
外科総論=桐原真節・赤星研造、製薬学=柴田承桂。
―略―
5 ポンペ持参の頭蓋骨
―略―
学科担当は、松本良順頭取自ら内科、
次に坪井芳洲(為春)薬剤学、
島村鼎甫(鼎)生理学、石井謙道(謙)病理学、
桐原玄海(真節)解剖学、
外に助教授は足立寛(藤三郎)蘭学理化学、
田代一徳(基徳)蘭学数学を各受け持ち、
―略―
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/02/20300.html