[畑中健二]①「分解結合の虚偽」
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

途中、京都で下車した。 p246
もう一人、会いたい人がいた。
畑中少佐の実兄である。
各出版物は、畑中少佐を激しい性格の人物として画いている。

ポツダム宣言を、天皇の大権に変更を加えない、
という諒解のもとに受諾する旨の日本側の申し出に対して、
“subject to”(隷属する)という正式回答が
連合国側から届いたのを知った
陸軍省軍務局の軍務・軍事少壮課員たちが、
阿南陸相にクーデター案を述べたとき、
反対意見を持っている佐藤戦備課長を睨んで、
「バドリオ通牒者に即刻人事的処理を加えられたい」
と激しい語調で言ったという畑中少佐。

無条件降伏という再度の聖断が下ったことを
陸相が課員たちに告げたとき、
とつぜん大声であげて泣きだしたという畑中少佐。

一転、猛然と行動しはじめ、
近衛師団司令部で石原、古賀両参謀と打ち合わせるや、
日比谷第一生命館の東部軍司令部の田中静壱司令官室に、
大声で所属・姓名を申告して入室、蹶起を要請して大喝される。

汗みどろで自転車のペダルを踏んで陸軍省に引き返し、
万事休したと自決を考えている一期先輩の井田少佐に、
残された最善の実行の道をとるべきだと説く。

森近衛師団長の説得を井田、椎崎両中佐に任せると、
近衛の車を駆って駿河台の宿舎に竹下中佐をたずね、
陸相の説得を懇願する。

そして、森師団長を射ち、ニセの師団長命令を発する。

天皇を擁しての蹶起計画は、もろくも挫折したが、
「十五日午前十一時半すぎ、宮城前広場、霞ヶ関、日比谷の界隈で、
 乗馬の一将校とサイドカー乗車の一将校とが、
 ビラを撒いているとの情報に接した。
 私は椎崎中佐と畑中少佐に違いないと判断し、
 即座に逮捕方を指令した。
 しばらくすると、今度は二人が宮城二重橋寄りの芝生で、
 正午やや前に自決したとの情報が入った」
と塚本誠元憲兵参謀は書いている。

不和博元東部軍参謀は、
「宮城事件は誰が起こしたかというに、
 私は畑中少佐一人の強烈な意思によるものと考える。
 椎崎中佐といえども、畑中少佐に引きずられたものと判断する。
 従って、井田中佐及古賀、石原両参謀の如きは、
 畑中少佐の熱意にただ盲従したにすぎない」
と言っている。

「純情といえばいえようが、単純すぎた生一本の馬車馬だ」
と評している人もいる。

級友は言った。
「しかしだね、もし軍人諸公が、
 はいそれではと承詔必謹よろしく復員していったら、
 肉親が中国大陸や南方戦線で戦死し、
 あるいは空襲で爆死し、
 家財を焼かれた国民は、
 さすがに日本の軍隊は立派だと感服しただろうかね。
 その逆だろうな。
 クーデターの軍人がいて、
 猪突であろうと闇雲に戦い抜こうとし、
 最後に自決したということが、
 かろうじて国民を納得させたといえないこともない」

初対面の上原重太郎や藤井大尉をして、
森中将を斬ることを決意させた
畑中健二という三十三歳の少佐には、
激越な言葉の奥にひそんでいる
なにかしらの人間味があったのではないだろうか、
と私は思った。

馬車馬とか、生一本とかの表現では片付けられないものが
あったのではないかと思われるのだ。

旧制高等学校時代、論理学の講義で聴いた一つの言葉が、
出席率のよくなかった私であるが、
妙に耳に残っている。

「分解結合の虚偽」という言葉である。

あるお宮に、難破しなかったお札の絵馬がずらりと掲げられている。
霊験あらたかなお宮であるという。
しかし、難破した者は、掲げるはずがない。
一見しただけで全てを断定するのは誤りである、
という論理である。

純粋一途が馬車馬ならば、
天皇の言葉に忠実だった思慮深い将校は、
あるいは身の保全を考えた優柔不断の者だった、
といえないこともない。
p246-247『自決』
〔画像〕p246-247『自決』
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