[畑中健二]③日記・死体検案書
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

畑中氏は、日記を一冊用意してくれてあった。
私の前に差し出されたそれを眼にして、
予科士の生徒の頃にかえったような気持ちになった。
まだ「陸軍予科士官学校」と改称されない
「陸軍士官学校予科」の頃のものだが、
私たちが使っていたものと同じ文庫本の大きさの、
全生徒一律の日記帳だった。
「予科第二中隊第一区隊畑中健二」と書かれている。

やはり、検閲印があった。
中、区隊長に日記を見せるという制度に、
しこりを覚えた生徒は少なくはない。
形式主義の陸軍の欠陥の一つが、これだった。
建て前だけの将校を養成するという愚かな教育が、
延々とつづけられていたわけであった。
だから、私は、この日記にはあまり期待しなかった。

頁をめくった。
やはりそうだった。
「昭和六年七月十五日水曜日、雨。
 本日ヨリ本邦史ヲ学ブ。
 我ガ国史ヲヒモトキ、
 其ノ変遷ヲ見、
 国民的自負心、
 自尊心ヲ養フトコロニ目的アリ。
 一層此ノ点ニ就キ教育スレバ、
 思想善導ノ一助トナルベシ。
 本日ノ馬術ハ行軍。
 誠ニヨキ道ヲ駆ケルモ、
 我等ノ壮快ノ一ナリ。
 銃剣術盛ンニヤル。」

「九月二十三日水曜日、晴。
 朝来ヨリ空ヨク晴レテ、
 演習日和ナリ。
 八時舎前ニ集合、
 代々木練兵場ニ向フ。
 午前中ハ分隊戦闘教練。
 相当複雑ナリキ。
 最後ニ援隊トシテハ突撃ハ、
 誠ニヘトヘトニナリヌ。
 サレド満洲ニ戦フ兵士ヲ思ハバ
 申シ訳ナキコトナリ。」

どの日付の頁を読んでも、
大体このようなことが書かれてあった。
私自身の日記を読み返しているような錯覚にさえ、捉われた。
おそらく、すべての生徒の日記にも、
同じような反省や決意が書かれているだろう。
畑中健二という生徒の個性は、日記からは姿を消していた。

「弟が自決したという報せが届きましたとき、
 やはり死んだか、と思いました。
 いえ、自決の理由を知ったのは、一年ほど経ってからです。
 弟は、常々、戦死された将兵の遺族の方に申し訳ないと、
 口癖のように申しておりましたので、
 終戦のラジオ放送を聴きましたとき、
 弟は生きてはいないだろうと、直感的に思いました。
 私は京都府の土木部に当時勤めていましたが、
 軍人でない私でさえも、
 一切の望みを絶ち切られた思いで、
 死ぬより他はないと考えたくらいでした。

「後年、弟のことが書かれてあるものを読みましたとき、
 自決手段について、
 ちょっと不審な気がいたしました。 p251
p250-251『自決』
〔画像〕p250-251『自決』

 椎崎さんは軍刀と拳銃で自決されておられるようですが、
 弟は拳銃だけしか使っていないようなのです。」

その疑問は、私にもあった。
『一死、大罪を謝す』には、
「十一時二十分、
 椎崎と畑中の二人は二重橋と坂下門との中間の芝生で自決した」
とだけしか書かれていないが、
『日本のいちばん長い日』には、
「宮城前二重橋と坂下門との中間芝生で二人の将校は生命を絶った。
 畑中少佐は森師団長を射ぬいたのと同じ拳銃で額の真中をぶちぬき、
 椎崎中佐は軍刀を腹部に突きさし、
 さらに拳銃で頭を射って倒れていた」とある。

「つてを得まして、死体検案書を見ることができました。
 弟の腹部にも切創がありました。
 やはり、軍刀を使っていました」

畑中氏が差し出した検案書の写しを受けとり、卓上にひろげた。
検案書を眼にするのは、上原重太郎のものにつづき、二度目であった。

   死体検案書
一、氏名 畑中健二
二、男女ノ別 男
三、出生年月日 明治四十五年三月二十八日
四、職業 軍人
五、死別 変死(自決)
六、病名 右下腹部切創兼頭部貫通銃創
七、死亡年月日 昭和二十年八月十五日午前十一時二十分頃
八、死亡ノ場所 東京都麴町区丸ノ内宮城前広場芝生上
  右検案候也
   昭和二十年八月十五日
     陸軍大臣官房附陸軍軍医少佐  指田隆之助 印

読みながら、「右下腹部切創」という文章が気になった。
軍刀は左から右に引く。
左下腹部に切創がみられないのは、
切腹は一応形式的であるので、かるく引き、
それで右下腹部だけに切創が残ったのであろうか。
p252-253『自決』
〔画像〕p252-253『自決』
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