[畑中健二]④軍務課長吉本重章大佐の読んだ弔辞
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

「もう一つ気になっておりますことは、
 椎崎さんのことがあまり書かれていないことでございます。
 ご存知のように、健二より一期先輩にあたります。
 兄のように敬慕していましたようで、
 健二と最後まで行動を共にしてくださったことが、
 身内として心に沁みるのでございます」

椎崎中佐の岳父辻邦助という人から、
畑中家に弔問状が届いていた。
消印の日付は、自決後ほぼひと月経った九月十一日である。
畑中少佐は、昭和二十年のはじめに
夫人と二女を鳥取に疎開させたのち戦災に遭って、
陸軍省の地下室で起居しているが、
一カ月半ほど椎崎中佐と共に岳父の家で
家族同様の生活していたらしく、
そのときの様子をこまごまと認めて知らせてきていた。

私は、椎崎中佐が大尉で区隊長だったころの生徒である
佐野幹雄元少佐をたずねた、椎崎中佐像を話した。
体力抜群で、無口だったということ、
「戦友」の歌を口ずさみながら涙を流していたということ、
そいだような頬できびしい眼をしていたということ、等等。

椎崎中佐と畑中少佐の遺体は、
十五日午後竹下中佐によって宮城前から引き取られ、
市ヶ谷台上で阿南陸相の遺体と共に、
夜、荼毘(だび)に付されたが、
軍務課長吉本重章大佐の読んだ弔辞を、
畑中氏は保存していた。 p254
p252-253『自決』
〔画像〕p252-253『自決』

「皇軍ハ飽迄御聖断ニ従ヒ行動ス」
という陸軍の方針を示した阿南陸相に背いた二人は、
叛逆将校となったわけだが、
弔文は二人を英霊として綴ってあった。
叛逆者扱いできない心情が、陸軍のなかにあったのだろう。

  弔 辞
故陸軍省軍務局課員 大本営陸軍参謀六軍中佐椎崎二郎君
同陸軍少佐畑中健二君ノ霊ニ告ク
国歩最モ苦難ノ転機ニ方リ壮烈両君ノ大義ニ殉スルニ遭フ
万感胸ニ迫リ捧クヘキ言葉ヲ知ラス
椎崎君 畑中君 共ニ軍職ニ身ヲ奉スルコト茲ニ十有数歳
出テテハ大陸ニ或ハ南方第一線ニ奮闘シテ
仇敵撃滅ノ任ニ当リ
入リテハ軍ノ中枢ニ配セラレテ戦争指導ノ枢機ニ参画セリ
コノ間常ニ尽忠憂国ノ至誠ニ一貫シテ任務ノ完遂ニ邁進シ
上ニ仕フルコト誠 下ヲ遇スルコト慈
身ヲ持スルコト厳 以テ軍人精神ノ本髄ニ徹シタリ
偶々今次ノ大変ニ際会スルヤ胸ニ烈々タル信念ヲ蔵シツツ
黙々トシテ事態ノ転換ニ最善ノ努力ヲ致シ
事此処ニ到ルヤ遂ニ一死以テ皇国悠久ノ大義ニ殉シタリ
其ノ至誠其ノ壮烈誰カ讃仰セサランヤ
皇国未曾有ノ大難ニ方リ今後苦難ノ下
再興ノ道ヲ打開センカ為
両君ニ期シタルコト甚タ大ナルモノアリ
(中略)
両君ノ霊亦以テ冥スヘキナリ
一言以テ弔辞トナス
両君ノ英霊冀クハ来リ饗ケヨ
 昭和二十年八月十六日
   陸軍省軍務課長
   大本営第十二課長
    陸軍大佐従五位勲四等 吉本重章

「健二さんは、親身に、おねえさんと慕ってくれはりました。
 やさしいお人でした」と老夫人が言ったが、
その夫人が仏壇にあげた灯明も燃えつきていた。
秋の陽はいつのまにか落ちていて、
「自彊院健行拳忠居士」
の戒名もはっきり読みとれないほどに、
座敷は暗くなりはじめていた。

   二十四
   ―略―
p254-255『自決』
〔画像〕p254-255『自決』
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