[體育に就ての所感:鹿田熊八氏(旧姓:三木)]
【簸川郡教育五十年史】大正14年
【簸川郡教育五十年史】大正14年12月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920819/224
[體育に就ての所感] p197226
鹿田熊八氏
余は明治十四年以來、
四十餘年間學校敎に從事し、
就中體育に就ては多大の興味を以て研究し、
多少の經驗を積み居るものと信じますから、
體操の經歷を述べ、
併せて余の鄙見を陳べて、
諸彦の批評を乞はんと思ひます。
(一) 體操の經歷
明治十四年
今市小學校在職中、
先輩故高橋伊伎夫氏、
故伊原齊氏、
金本鹿之助君、
宍道啓次郎君等の推薦に依り、
十五年一月
東京體操傳習所に入所致しました。
同所は東京神田一ツ橋にありて、
日本體操學校の創設にて、
しかも文部省直轄にて、
設備も完備し、
敎師は米國麻沙士州人
「ドクトル、リーランド」、
坪井玄道、
田中盛業等の諸先生にて、
學科は修身、心理、生理、衞正等にして、
體操は徒手體操、唖鈴、球竿、棍棒、木環、豆嚢體操なり。
器械體操は鐵棒、並行桿、木馬、直竿等にして、
遊戯は
「フートボール」、
「ベースボール」、
「クルケツト」、
「クロツケー」等なり。
毎朝六七十度の微温湯に浴し、
健康診断を爲し、
體操は
「クララ」と云ふ洋婦人の
「ピアノ」に合せて、
最も美妙輕快に實習しました。
十六年三月
卒業し、
歸國の途次縣廰に參り、
時の縣令境二郎殿、
其他縣官に縣廰の玄關に於て
棍棒體操をして御覧に入れました。
簸川郡に歸りては、
各所に於て敎員諸君に
體操の講習を致しました。
島根縣に於て體操の講習は、
我簸川郡が最も先鞭者でありました。
其頃は體操は未だ新らしきものから、
物珍らしそうに
何れに於ても參觀人多く集り、
體操敎師はオイチ二の先生と呼びて、
恰も千金丹賣りの如く
世人に嘲けられたものであります。
其後
余は濱田中學校に轉任し、
久多美村・河原柳太郎氏及
米子の三好才五郎氏、
續て體操傳習所に入り、
卒業の上
松江師範學校の體操敎師となられました。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920819/197
【改正官員録. 明治16年4月】
明治16年4月2日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779319/314
島根縣 出雲國 島根郡 松江 p288/318
令 山口 從五位 境 二郎
大書記官 新潟 從六位 星野輝賢
一等属 滋賀 門野長道
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779319/288
- 日本近代体育黎明期の体操伝習所(明治 1 1 ~1 9 年)-
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/shintai-to-yugi/catalog.pdf
[体操伝習所旧蔵書が語るもの]
―略―
次に、体操伝習所の教育に関して重要な人物を挙げるとすれば、
リーランド(G.A.Leland)と坪井玄道ということになろう。
リーランドはボストンのアマースト大学卒業後、
ハーバード大学で医学を学んだ人で、
後年アメリカ喉頭学会の会長を務めた。
―略―
一方、坪井は生涯に25冊の編・著・訳書を残した。
体操伝習所時代には
田中盛業(体操伝習所第一回卒業生、同教官)との共著で、
『小学普通体操法』(明治17年)と
『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(明治18年)の2冊を著わしている。
―略―
(おおくま・ひろあき 体育科学系助教授)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2503/okuma.html
[クロッケー歴史年表]
明治11年(1878)
『体操伝習所』開設に伴い、
リーランドがはじめてクロッケーを紹介する。
リーランド通訳の坪井玄道、
クロッケーに『循環球』の訳語をあてる。
http://www.croquet.jp/HistricalTable.htm
[鹿田熊八氏(旧姓:三木)]
【東京高等師範学校一覧】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659506.html
【簸川郡教育五十年史】大正14年
【簸川郡教育五十年史】大正14年12月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920819/224
[體育に就ての所感] p197226
鹿田熊八氏
余は明治十四年以來、
四十餘年間學校敎に從事し、
就中體育に就ては多大の興味を以て研究し、
多少の經驗を積み居るものと信じますから、
體操の經歷を述べ、
併せて余の鄙見を陳べて、
諸彦の批評を乞はんと思ひます。
(一) 體操の經歷
明治十四年
今市小學校在職中、
先輩故高橋伊伎夫氏、
故伊原齊氏、
金本鹿之助君、
宍道啓次郎君等の推薦に依り、
十五年一月
東京體操傳習所に入所致しました。
同所は東京神田一ツ橋にありて、
日本體操學校の創設にて、
しかも文部省直轄にて、
設備も完備し、
敎師は米國麻沙士州人
「ドクトル、リーランド」、
坪井玄道、
田中盛業等の諸先生にて、
學科は修身、心理、生理、衞正等にして、
體操は徒手體操、唖鈴、球竿、棍棒、木環、豆嚢體操なり。
器械體操は鐵棒、並行桿、木馬、直竿等にして、
遊戯は
「フートボール」、
「ベースボール」、
「クルケツト」、
「クロツケー」等なり。
毎朝六七十度の微温湯に浴し、
健康診断を爲し、
體操は
「クララ」と云ふ洋婦人の
「ピアノ」に合せて、
最も美妙輕快に實習しました。
十六年三月
卒業し、
歸國の途次縣廰に參り、
時の縣令境二郎殿、
其他縣官に縣廰の玄關に於て
棍棒體操をして御覧に入れました。
簸川郡に歸りては、
各所に於て敎員諸君に
體操の講習を致しました。
島根縣に於て體操の講習は、
我簸川郡が最も先鞭者でありました。
其頃は體操は未だ新らしきものから、
物珍らしそうに
何れに於ても參觀人多く集り、
體操敎師はオイチ二の先生と呼びて、
恰も千金丹賣りの如く
世人に嘲けられたものであります。
其後
余は濱田中學校に轉任し、
久多美村・河原柳太郎氏及
米子の三好才五郎氏、
續て體操傳習所に入り、
卒業の上
松江師範學校の體操敎師となられました。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920819/197
【改正官員録. 明治16年4月】
明治16年4月2日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779319/314
島根縣 出雲國 島根郡 松江 p288/318
令 山口 從五位 境 二郎
大書記官 新潟 從六位 星野輝賢
一等属 滋賀 門野長道
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779319/288
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
- 日本近代体育黎明期の体操伝習所(明治 1 1 ~1 9 年)-
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/shintai-to-yugi/catalog.pdf
[体操伝習所旧蔵書が語るもの]
―略―
次に、体操伝習所の教育に関して重要な人物を挙げるとすれば、
リーランド(G.A.Leland)と坪井玄道ということになろう。
リーランドはボストンのアマースト大学卒業後、
ハーバード大学で医学を学んだ人で、
後年アメリカ喉頭学会の会長を務めた。
―略―
一方、坪井は生涯に25冊の編・著・訳書を残した。
体操伝習所時代には
田中盛業(体操伝習所第一回卒業生、同教官)との共著で、
『小学普通体操法』(明治17年)と
『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(明治18年)の2冊を著わしている。
―略―
(おおくま・ひろあき 体育科学系助教授)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2503/okuma.html
[クロッケー歴史年表]
明治11年(1878)
『体操伝習所』開設に伴い、
リーランドがはじめてクロッケーを紹介する。
リーランド通訳の坪井玄道、
クロッケーに『循環球』の訳語をあてる。
http://www.croquet.jp/HistricalTable.htm
[鹿田熊八氏(旧姓:三木)]
【東京高等師範学校一覧】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659506.html