[鍼灸醫と鍼灸會4/4]
【西区史. 第1巻】昭和18年

【西区史. 第1巻】昭和18年9月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/482
四、鍼灸醫と鍼灸會               p405/484
尚鍼灸家として有名なるものゝ中より二三を擧ぐれば、 p407/484

「藤井小兒はり」
西長堀北通一丁目
四ツ橋北詰にあり
前記《藤井秀二》の經營である。

天文元年        ※①天文1年壬辰:西暦1532年
            ※③天文元年:元文元年の原文校正ミス
            ※③元文元年丙辰:西暦1736年
            ※③平成26年2月12日:小野一雄
《藤秀孟郡子》なる人が ※下記参照
河内柏原より大阪に出で、
中津町(今の東清水町)に來りて醫者を始め、

次代より大寶寺町西之町(現在 御堂筋角)に移り
代々醫者で鍼術を兼ねた。

當主は其七代目に當り  ※當主:藤井秀二
昭和五年現在地に移轉した。

また藤井家五代《秀年》の弟《秀廣》も醫者で
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/407
幕末頃より
立賣堀穴喰屋橋北詰に
鍼専門で開業して居たが、
死去の後は息女の姉妹二人が後を嗣いだ。
現今では珍しい事は無いが
當時の女醫は珍らしく
小兒鍼の藤井先生と一層有名になつたといふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/408
「阪井はり」で通つて居る
京町堀一丁目の阪井家は
代々加賀大聖寺藩の鍼醫であつたが、
幕末の頃《阪井豊作》なる人
當地に移りて廣く一般施療に從ひ、
慶應二年「鍼術秘要」二巻を著して一派を成した。
現在の當主はその三代目である。

南堀江上通三丁目には
「ながとやの灸」で有名な長門谷家がある。
此邊が船着場であつた頃は
遠國の人々がよく灸治に來たといふ事であり、
其名は享和版の「浪華なまり」にも記されてゐる舊家で、
當主は阪大出身で灸の研究で學位を取つた人である。
※當主《長門谷丈一

また「四花灸」で名高い立賣堀北通の奥西家
永享年間に其源を發し其名は遠近に知られて居る。

幸町二丁目の
「天平本院」は薩州藩御典鍼灸醫
肥後守正の直流である
《郡山七二》が經營して居る。
氏は大阪に出て約二十年
大阪市鍼灸會設立の功勞者で
現にその會長である。

尚 按摩術、マツサージ術を營業する者は
西區に男女を合して二百四十名である。
(昭和十五年十二月三十一日現在)
(大阪市統計書による)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042194/408

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《藤秀孟郡子》

[日本内經醫學會談話室]
2011年3月18日金曜日
35-2 鍼法辨惑
投稿者 菉竹
35-2『鍼法辨惑』
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼法辨惑』(シ・626)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』35所収
 ―略―
○明和旃蒙作噩:明和二年(一七六五)。旃蒙:乙。作噩:酉。 ※②
○仲秋:陰暦八月。 ○望:十五日。 
○河内:現在の大阪府の東部。 
○藤秀孟郡子:京都大学医学図書館富士川文庫目録には「加藤秀孟」とある。
『国書総目録』はこの説とともに、
大阪出版書籍目録等により「藤井郡子」説を載せる。
 ―略―
http://daikei.blogspot.jp/2011/03/blog-post_18.html

※②明和2年乙酉:西暦1765年
http://maechan.net/kanreki/

※③平成26年2月12日:小野一雄
[鍼灸治療所蓬菴(よもぎあん)]
〒649-7206 和歌山県橋本市高野口町向島84-13
 ―略―
小児はりの歴史は古く
江戸時代中期の
元文元年(1736年)に
藤井秀孟の「鍼法弁惑」には、
小児はりの記載があるといわれています。
 ―略―
http://yomogian.com/syounihari.html