『杜に咲いた 紅い花十輪』
[早稻田大學新聞]昭和3年4月26日
[早稻田大學新聞]昭和三年四月廿六日(木曜日)
「學園の春」
『杜に咲いた 紅い花十輪』
〔日だまりに物思ふ〕
《精進な女性達》
陰鬱な冬が去つてめぐり來た春の微風と共に
匂やかに咲き出でた紅い花十輪、
新緑の杜を華やかな息吹きに彩どる楚々の姿態、
春のひる下り、
柔かな吹くともなしの風に
ひるがへる裾も輕やかに
そぞろ歩く若き
女子聽講生の一群こそそれだ、
學園を慕つて集まつたこれらの女性達は
やはらかな文科志望のみでなく
政經に四人、
法科に二人とは
時節柄見逃せぬ現象ではある、
しかもうら
若い異國の花も交つて
× ×
「政客の僞瞞に組せず
學術研究を以て
日支親善の根本的方策を立てたいと
思ひます」
歸國後の抱負を卒直に語る
《洪蔚如》さんは
上海南方大學政治科の二年修了生だ、
同じ民國の
《陳素琴》さんは
これも上海法政大學經濟科を二年修了した人
背の君は東北帝大出の理學士だ、 ※背の君:夫:別稿に記載
この他に法科に
朝鮮の牧師さんの娘で
京都淑女を出て長崎で宣教師をしてた ※①京都淑女
《楊確實》さん、
辨護士志望も殊勝、
今一人の
《小手川リン》さんは
富士見高女の出、 ※②富士見高女
廿九歳を頭に廿歳まで
何れ劣らぬ向學心に燃ゆる女性達は
早稲田の學び舎を何と見てゐるか
「まだ授業に出ないんですもの
私わかりませんは、
でも學生が多くて何處へ行っても
ゴチヤゴチヤゐるし
ペタベタ貼出した掲示などを見ると
停車場の様な感じが致しますわ」
恥づかしさうに身をひねりながら
語るひとは
櫻井女塾にゐた ※③櫻井女塾
英文科の
《大鹽マサ》さんだ、
女子英學塾選科出の ※④女子英學塾
《關鏡子》さん、
帝國女子専門出の ※⑤帝國女子専門
《金子常子》さん、
神奈川高女出の ※⑥神奈川高女
《吉川コト》さんの
三人は皆
國文科で
十七名の受驗者の中から
選抜されただけあつて
頭も気も當世には稀な程
しつかりしてゐるとは
事務所の保證だ
政經の
《三瓶コウ》さんは
今年東京女子大を終へた人 ※⑦東京女子大
同じ
《石原清子》さんは
神戸女子商業からそこの専修科高等部、 ※⑧神戸女子商業
次いで大阪古屋女子英學塾と ※⑨大阪古屋女子英學塾
三階段の過程を經ただけ
廿二歳の若さにしては
偉らく秀才
× ×
とまれ男世帯の學園に
おのがじゝの抱負を持つて
飛びこんだ女性十名、
自由の學園に何を學び得、
何を感得するか、
春のひだまりにさざめき
さへも洩らさず、
静かに物思ふてゐた二人の女性が
遽(にはか)に鳴りひびいた鐘の音に
慌しく立上つた
寫眞は右から、石原、洪、陳、三瓶、吉川、關、金子、大鹽の諸嬢
※①~⑨:別稿に記載
[戦前期早稲田大学の台湾人留学生]
《紀 旭峰》
一 台湾人の早稲田大学留学の歴史的展開 p2/37
(一) 早稲田大学の外国人・外地留学生受け入れ p2/37
さて、早稲田大学は各学部への女子学生の入学を許可したのは p4/37
一九三九年(昭和14年)一月であった。
その二年後、つまり一九四一年(昭和16年)四月に
最初の女子留学生《王汝蘭》、《黎青竹》、《戒清松》が入学する。
この三名はいずれも中国人で、文学部に進学した。
一方、朝鮮からは聴講生として二名入学したものの、
名前と入学・中退時期は明らかでない。註(10)
註(10) 早稲田大学校友会女子同好会編 p29/37
『早稲田女子学生の記録 一九三九~一九四八』、八七頁
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/38846/1/WasedaDaigakushiKiyo_44_Chi.pdf
研究者氏名
《紀 旭峰》
(キ キョクホウ)
所属 早稲田大学
部署 アジア研究機構
職名 次席研究員(研究院講師)
学位 博士(学術)(早稲田大学), 修士(国際関係学)(早稲田大学)
その他の所属 聖心女子大学
http://researchmap.jp/rara8584/
[早稻田大學新聞]
昭和三年四月廿六日(木曜日)
◇週刊◇
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659678.html
《陳素琴:背の君は東北帝大出の理學士》
【東北帝国大学一覧】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659680.html
『杜に咲いた 紅い花十輪』※①~⑨
[早稻田大學新聞]昭和3年4月26日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659681.html
[早稻田大學新聞]昭和3年4月26日
[早稻田大學新聞]昭和三年四月廿六日(木曜日)
「學園の春」
『杜に咲いた 紅い花十輪』
〔日だまりに物思ふ〕
《精進な女性達》
陰鬱な冬が去つてめぐり來た春の微風と共に
匂やかに咲き出でた紅い花十輪、
新緑の杜を華やかな息吹きに彩どる楚々の姿態、
春のひる下り、
柔かな吹くともなしの風に
ひるがへる裾も輕やかに
そぞろ歩く若き
女子聽講生の一群こそそれだ、
學園を慕つて集まつたこれらの女性達は
やはらかな文科志望のみでなく
政經に四人、
法科に二人とは
時節柄見逃せぬ現象ではある、
しかもうら
若い異國の花も交つて
× ×
「政客の僞瞞に組せず
學術研究を以て
日支親善の根本的方策を立てたいと
思ひます」
歸國後の抱負を卒直に語る
《洪蔚如》さんは
上海南方大學政治科の二年修了生だ、
同じ民國の
《陳素琴》さんは
これも上海法政大學經濟科を二年修了した人
背の君は東北帝大出の理學士だ、 ※背の君:夫:別稿に記載
この他に法科に
朝鮮の牧師さんの娘で
京都淑女を出て長崎で宣教師をしてた ※①京都淑女
《楊確實》さん、
辨護士志望も殊勝、
今一人の
《小手川リン》さんは
富士見高女の出、 ※②富士見高女
廿九歳を頭に廿歳まで
何れ劣らぬ向學心に燃ゆる女性達は
早稲田の學び舎を何と見てゐるか
「まだ授業に出ないんですもの
私わかりませんは、
でも學生が多くて何處へ行っても
ゴチヤゴチヤゐるし
ペタベタ貼出した掲示などを見ると
停車場の様な感じが致しますわ」
恥づかしさうに身をひねりながら
語るひとは
櫻井女塾にゐた ※③櫻井女塾
英文科の
《大鹽マサ》さんだ、
女子英學塾選科出の ※④女子英學塾
《關鏡子》さん、
帝國女子専門出の ※⑤帝國女子専門
《金子常子》さん、
神奈川高女出の ※⑥神奈川高女
《吉川コト》さんの
三人は皆
國文科で
十七名の受驗者の中から
選抜されただけあつて
頭も気も當世には稀な程
しつかりしてゐるとは
事務所の保證だ
政經の
《三瓶コウ》さんは
今年東京女子大を終へた人 ※⑦東京女子大
同じ
《石原清子》さんは
神戸女子商業からそこの専修科高等部、 ※⑧神戸女子商業
次いで大阪古屋女子英學塾と ※⑨大阪古屋女子英學塾
三階段の過程を經ただけ
廿二歳の若さにしては
偉らく秀才
× ×
とまれ男世帯の學園に
おのがじゝの抱負を持つて
飛びこんだ女性十名、
自由の學園に何を學び得、
何を感得するか、
春のひだまりにさざめき
さへも洩らさず、
静かに物思ふてゐた二人の女性が
遽(にはか)に鳴りひびいた鐘の音に
慌しく立上つた
寫眞は右から、石原、洪、陳、三瓶、吉川、關、金子、大鹽の諸嬢
『杜に咲いた 紅い花十輪』[早稻田大學新聞]昭和3年4月26日
※①~⑨:別稿に記載
[戦前期早稲田大学の台湾人留学生]
《紀 旭峰》
一 台湾人の早稲田大学留学の歴史的展開 p2/37
(一) 早稲田大学の外国人・外地留学生受け入れ p2/37
さて、早稲田大学は各学部への女子学生の入学を許可したのは p4/37
一九三九年(昭和14年)一月であった。
その二年後、つまり一九四一年(昭和16年)四月に
最初の女子留学生《王汝蘭》、《黎青竹》、《戒清松》が入学する。
この三名はいずれも中国人で、文学部に進学した。
一方、朝鮮からは聴講生として二名入学したものの、
名前と入学・中退時期は明らかでない。註(10)
註(10) 早稲田大学校友会女子同好会編 p29/37
『早稲田女子学生の記録 一九三九~一九四八』、八七頁
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/38846/1/WasedaDaigakushiKiyo_44_Chi.pdf
研究者氏名
《紀 旭峰》
(キ キョクホウ)
所属 早稲田大学
部署 アジア研究機構
職名 次席研究員(研究院講師)
学位 博士(学術)(早稲田大学), 修士(国際関係学)(早稲田大学)
その他の所属 聖心女子大学
http://researchmap.jp/rara8584/
[早稻田大學新聞]
昭和三年四月廿六日(木曜日)
◇週刊◇
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659678.html
《陳素琴:背の君は東北帝大出の理學士》
【東北帝国大学一覧】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659680.html
『杜に咲いた 紅い花十輪』※①~⑨
[早稻田大學新聞]昭和3年4月26日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659681.html