《大瀧新之助氏》
【両羽之現代人】大正8年

【両羽之現代人】大正8年1月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962037/244
《大瀧新之助氏》   p26/247
松風工業株式會社  専務取締役
内外電球株式會社  専務取締役
發明品製造株式會社 社長
 ―略―
明治四十五年一月を以つて逝去し  p27/247
東京市芝區白銀三光町の一寺院に葬られたる
《大瀧忠徳》氏は實に氏の先考である。

氏は明治五年十月二十七日を以つて
前記《忠徳》氏の長男として
呱々の聲を米澤市の一隅
西土手の内町に擧げられた、

八歳、
巖君職に東置賜郡に就きたるに當りて
米澤を去りし時、
氏も亦た是れに隨ひ、

初等教育を東置賜郡高畑小學校に受け、
選秡試驗に屡々及第して
十二歳の少時是れを卒はり、

ついで同郡の教員養成所の在る事二年、


米澤市に出で興讓館に學ぶ事一年、

更らに山形市の縣立山形中學校に入りて學んだ、
當時同中學校校長は《栂野四男吉》氏、
上級には帝國製麻株式會社重役《鈴木鈴馬》氏あり、
同窓には京都文科大學教授文學博士《藤井健次郎》氏があつた、
斯くて氏は在學中校長《栂野》氏を送り、
《福原鐵次郎》の校長時代に同校を出で、

更らに進んで
仙臺に笈を負ひ
第二高等學校(當時第二高等中學校と稱す)に學び、
第一部の教育を受くる事五年、
ついで是れを卒はつた、
《中西清一》(南滿洲鐵道株式會社副總裁)
《若宮貞夫》(逓信省管船局長)
兩氏は當年の同窓で、
氏は當時《黒畔芥舟》氏(第一高等學校教授)と
寝食を伴にした。

斯くて明治二十九年
第二高等學校を出でゝ
笈を東都に負ひ
帝國大學法科大學に入り
仔々螢雪の苦を積む事三年、
明治三十二年之を卒はり
法學士の學位を綬けられたのであつた、

此時に當り、京都に大學新設の気運熟し
是が實施開校を見るに至つたので
氏は京都に轉じ、
京都地方裁判所に司法官として奉職しつゝ
京都大學大學院に入りて商法の蘊奥を叩き、
爾來同院に學ぶこと五年の久しきに亘つた、

之より先き、
明治三十五年に至り
官界を辭して野に下り
辨護士事務所を京都市に開き
爾來大正六年に至る殆んど
十五年間幾多重大事件の辨護に當り、
其の名聲甚だ擧がり、
京都市民は勿論
京都市を中心として
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四方の地方人士間の其の信望を博するに至つた、

是れより、
陶工より起りて遂に
松風陶器合資會社を創設せる
《松風嘉定》氏の事業を輔け、
大正六年十二月
松風工業株式會社を組織し
その成立に及んで専務取締役に擧げられ
大正六年四月
辨護士の職を辭して實業界の人と爲られたのである、

而して松風工業株式會社は現在
資金二百萬圓(半額払込)を有する
電気絶縁碍子製造を目的とし
全國の電燈會社に供給する獨占事業
(其外本邦には名古屋に森村組の
 日本陶器會社ありて此の製造に當るのみ)
で前記《松風》氏社長、
《大瀧》氏専務取締役として
其の經營に從事せられて居る、

猶ほ《大瀧》氏は
内外電球株式會社
(資金五十萬圓四分ノ一払込)の社長として、
大阪電機株式會社
(資金二百五十萬圓四分ノ一払込)の取締役として、
株式會社鶴谷商會
(輸出貿易、資金壹百萬圓半額払込)の監査役として
更に
朝鮮硬質陶器株式會社
(釜山在、資金壹百萬圓四分ノ一払込)の監査役として
 奮闘し今日あるに至つたのである。

 米澤出身在京都の人々曰く。
  『大瀧氏、法學に精通し、民情に深く、
   殊に政黨、選擧の内情の如き
   實に知らざるものなし、
   温厚の裡落々の性を帯び、
   其人敬慕に堪えず、
   吾郷有爲會の京都幹事長たる好適仕なり)と。

著者も亦親しく氏の風貌に接する事を得た、
謹重なる米澤気質を有する一面、
磊落にして衒はざる大學気品を有し、
高くとまらんとする
郷土気質を罷脱して
其間温情流露し、
重役として貫目に缺くる所なき所に氏の面目がある。(了)
 現在 京都市河原町二條上ル
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【米沢尋常中学興譲館年報. 明治26年5月-28年12月】
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【米沢藩学問所興譲館米沢中学校年志】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466495/3

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』