《上羽玄碩》
《上羽志満》
《小野 安》
【日本医籍録:昭和3年版】
【日本医籍録:附・医学博士録・法規. 昭和3年版】
昭和3年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/1286
京都府 竹野郡 p504/1287
《上羽玄碩》
徳光村成願寺
内科 上羽醫院
慶應三年十月廿一日生
明治三十四年 大阪慈恵醫學校卒 ※下記
登録 一九五三一號
明治三十四年迄 大阪緒方病院ニテ
内科及外科擔任
次デ
父祖十代ノ業ヲ計ギ
現地開業
爾來
村醫及
徳光村成願寺郵便局長等
歴任至現在
趣味 書畫 囲碁
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/504
京都府 加佐郡 p508/1287
《上羽志満》 新舞鶴町濱
上羽産科婦人科醫院
明治二年十一月廿三日生
明治三十六年 登録 一七八〇四號
京大醫院ニテ産婦科學研究
日赤大阪支部 看護婦長トシテ奉職
明治四十一年 現地開業
趣味 育児
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/508
兵庫縣 武庫郡 p570/1287
《小野 安》 精道村芦屋字苅屋 ※下記
明治十六年九月十二日生
高知縣出身
明治三十六年 登録 一六六二六號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/570
「芦屋市月若町=(小字名)苅屋」
[ホテル竹園芦屋]
―略―
私は芦屋市史編集室を訪ねました。
室長の白川さんはとても博学で、
特に芦屋の事は何でもご存知で
すぐに教えて下さいました。
以下は市史編集室白川さんのお話です。
「町名としては残っていませんが
恐らくこのあたりの事を
西之町と呼んでいたのではないでしょうか・・・
それは現在の西芦屋町・月若町・西山町にあたりますが
小字で言いますと・・・・・
西芦屋町=(小字名)岸ノ下全部・寺田大部・西ノ口南部
月若町 =(小字名)苅屋・南ノ口全部・北ノ口南部・古屋敷一部
西山町 =(小字名)開森・芝ノ欠全部・西ノ坊一部・法泉寺南部・
北ノ口・西ノ口・ 寺田北部・古屋敷一部
ということになります」
―略―
http://www.takezono.co.jp/ashiyadayori/40.html
≪當時多數の男生の中に交った女醫學生:その後①≫
[日本女医会雑誌]第73号:昭和11 年
[日本女醫會雑誌]第七十三號
日本女醫公許五十周年記念號
《明治時代の關西に於ける女醫の學校》
<大阪慈惠醫院醫學校と關西醫學院> p109-110
明治廿七八年頃、大阪東區粉河町に、
〔大阪慈惠醫院醫學校〕が創立され、
校長には緒方正淸氏、講師としては、
高安通成、松本需一郎、鬼束益三、岩崎寛治、
田中祐吉、下方正則、白金某等の先生方が居られた。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267440.html
《上羽志満》
【日本医籍録:附録・医学博士録、法規. 昭和14年版 近畿版】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659736.html
《上羽志満》
《小野 安》
【日本医籍録:昭和3年版】
【日本医籍録:附・医学博士録・法規. 昭和3年版】
昭和3年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/1286
京都府 竹野郡 p504/1287
《上羽玄碩》
徳光村成願寺
内科 上羽醫院
慶應三年十月廿一日生
明治三十四年 大阪慈恵醫學校卒 ※下記
登録 一九五三一號
明治三十四年迄 大阪緒方病院ニテ
内科及外科擔任
次デ
父祖十代ノ業ヲ計ギ
現地開業
爾來
村醫及
徳光村成願寺郵便局長等
歴任至現在
趣味 書畫 囲碁
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/504
京都府 加佐郡 p508/1287
《上羽志満》 新舞鶴町濱
上羽産科婦人科醫院
明治二年十一月廿三日生
明治三十六年 登録 一七八〇四號
京大醫院ニテ産婦科學研究
日赤大阪支部 看護婦長トシテ奉職
明治四十一年 現地開業
趣味 育児
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/508
兵庫縣 武庫郡 p570/1287
《小野 安》 精道村芦屋字苅屋 ※下記
明治十六年九月十二日生
高知縣出身
明治三十六年 登録 一六六二六號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/570
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
「芦屋市月若町=(小字名)苅屋」
[ホテル竹園芦屋]
―略―
私は芦屋市史編集室を訪ねました。
室長の白川さんはとても博学で、
特に芦屋の事は何でもご存知で
すぐに教えて下さいました。
以下は市史編集室白川さんのお話です。
「町名としては残っていませんが
恐らくこのあたりの事を
西之町と呼んでいたのではないでしょうか・・・
それは現在の西芦屋町・月若町・西山町にあたりますが
小字で言いますと・・・・・
西芦屋町=(小字名)岸ノ下全部・寺田大部・西ノ口南部
月若町 =(小字名)苅屋・南ノ口全部・北ノ口南部・古屋敷一部
西山町 =(小字名)開森・芝ノ欠全部・西ノ坊一部・法泉寺南部・
北ノ口・西ノ口・ 寺田北部・古屋敷一部
ということになります」
―略―
http://www.takezono.co.jp/ashiyadayori/40.html
≪當時多數の男生の中に交った女醫學生:その後①≫
[日本女医会雑誌]第73号:昭和11 年
[日本女醫會雑誌]第七十三號
日本女醫公許五十周年記念號
《明治時代の關西に於ける女醫の學校》
<大阪慈惠醫院醫學校と關西醫學院> p109-110
明治廿七八年頃、大阪東區粉河町に、
〔大阪慈惠醫院醫學校〕が創立され、
校長には緒方正淸氏、講師としては、
高安通成、松本需一郎、鬼束益三、岩崎寛治、
田中祐吉、下方正則、白金某等の先生方が居られた。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267440.html
《上羽志満》
【日本医籍録:附録・医学博士録、法規. 昭和14年版 近畿版】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659736.html