[千里軒の二階つきバス:明治七年]
【日本新聞広告史】昭和15年
【日本新聞広告史】昭和15年11月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/744
明治七年頃 p117/748
東京市内交通機關として
「千里軒」の乘合馬車があつた。
之は同年八月六日 ※明治7年(1874)8月6日》
「東京日日」七百六十三號に掲載された
千里軒の廣告であり、
片方はその乘合馬車の實景である。
併し此
乘合馬車の
二階作りが危險とあつて
使用を禁止された。
〔写真① 「千里軒」の二階つきバス〕
〔写真②〕 乘合馬車開業
弊社 今般 歐米各國にて行るゝ
「オムンボス」と稱する
二階造の馬車運轉を始め
客三十人を乘せ
淺草雷神門前より
新橋汽車「ステーション」迄
一時?達す
毎朝六時より午後八時迄
一日往返六回すべし
路上の賓客便利の爲め
途中の乘り下り望?任す
冀????
四方の君子
伏て來駕したまわん事を
壹人前 賃金 十錢
途中半ヲ限 三錢 千里軒
明治七年時代の東京の交通
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/117
《由良 守応》
和歌山文化情報アーカイブ事業
和歌山県ふるさとアーカイブ
紀の国の先人たち
事業家 《由良 守応》(ゆら もりまさ)
1827年(文政10年)~1894年(明治27年)
由良町生まれ
二階建ての馬車を走らせた時代の先駆者
文政10年(1827)、門前村(現:由良町)に生まれる。
―略―
明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団に参加、
英国で二輪馬車や四輪馬車、
オムンボスという二階建ての乘合馬車を見て、
馬車に魅せられた日々を送り、
日本でも走らせたいと夢を持つ。
―略―
明治7年(1874)、
乘合馬車会社「千里軒」を開業、
東京浅草から新橋間に日本で初めて
二階建ての馬車を走らす。
このオムンボスの勇姿に、
東京の人々は歓声をあげて喜ぶ。
しかし、同業者の増加や鉄道等の発達により、
明治13年(1880)、営業に終止符を打つ。
その後、時代の先どりを行く
発動機の製造会社を設立するが、
うまく事は運ばず帰郷、
明治27年(1894)、67歳で亡くなった。
由良町興国寺内には、
守応の功績を称え、顕彰碑が建立されている。
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yura.html
―略―
松平 忠和 元島原県知事 Matzudira
井上 三四郎 元島原県知事家扶 Enoeya
瀬谷 小次郎 元黒羽県知事随従 Sedzuma
小野 梓 Ono
由良 勧農助 和歌山 14 Japanese Students
山澤 静吾 鹿児島県 14 Japanese Students
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2098882.html
【日本新聞広告史】昭和15年
【日本新聞広告史】昭和15年11月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/744
明治七年頃 p117/748
東京市内交通機關として
「千里軒」の乘合馬車があつた。
之は同年八月六日 ※明治7年(1874)8月6日》
「東京日日」七百六十三號に掲載された
千里軒の廣告であり、
片方はその乘合馬車の實景である。
併し此
乘合馬車の
二階作りが危險とあつて
使用を禁止された。
〔写真① 「千里軒」の二階つきバス〕
〔写真②〕 乘合馬車開業
弊社 今般 歐米各國にて行るゝ
「オムンボス」と稱する
二階造の馬車運轉を始め
客三十人を乘せ
淺草雷神門前より
新橋汽車「ステーション」迄
一時?達す
毎朝六時より午後八時迄
一日往返六回すべし
路上の賓客便利の爲め
途中の乘り下り望?任す
冀????
四方の君子
伏て來駕したまわん事を
壹人前 賃金 十錢
途中半ヲ限 三錢 千里軒
明治七年時代の東京の交通
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/117
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
《由良 守応》
和歌山文化情報アーカイブ事業
和歌山県ふるさとアーカイブ
紀の国の先人たち
事業家 《由良 守応》(ゆら もりまさ)
1827年(文政10年)~1894年(明治27年)
由良町生まれ
二階建ての馬車を走らせた時代の先駆者
文政10年(1827)、門前村(現:由良町)に生まれる。
―略―
明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団に参加、
英国で二輪馬車や四輪馬車、
オムンボスという二階建ての乘合馬車を見て、
馬車に魅せられた日々を送り、
日本でも走らせたいと夢を持つ。
―略―
明治7年(1874)、
乘合馬車会社「千里軒」を開業、
東京浅草から新橋間に日本で初めて
二階建ての馬車を走らす。
このオムンボスの勇姿に、
東京の人々は歓声をあげて喜ぶ。
しかし、同業者の増加や鉄道等の発達により、
明治13年(1880)、営業に終止符を打つ。
その後、時代の先どりを行く
発動機の製造会社を設立するが、
うまく事は運ばず帰郷、
明治27年(1894)、67歳で亡くなった。
由良町興国寺内には、
守応の功績を称え、顕彰碑が建立されている。
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yura.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆]01-06
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2099902.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-04
〔在欧吉田少輔往復書類〕 p265-268
[明治前期 財政経済史料集成]第十巻 大内兵衛 土屋喬雄 編
昭和54年4月20日発行 原書房(復刻版)
昭和10年8月19日発行 改造社
―略―
松平 忠和 元島原県知事 Matzudira
井上 三四郎 元島原県知事家扶 Enoeya
瀬谷 小次郎 元黒羽県知事随従 Sedzuma
小野 梓 Ono
由良 勧農助 和歌山 14 Japanese Students
山澤 静吾 鹿児島県 14 Japanese Students
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2098882.html