[小野梓先生を憶ふ]
【文墨余談】市島謙吉著 昭和10年
【文墨余談】昭和10年8月19日発行
著作者 市島謙吉
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/215
「亡友録」 p132/219
[小野梓先生を憶ふ] p132-139/219
~六月十九日早稲田佛敎青年會席上演説大要~
※大正15年(1926)6月19日
小野梓先生の長逝は p132/219
明治十九年(1886)一月十一日、
享年僅かに三十五歳、
今より七年前に早大の佛敎青年會で
三十三周忌の追悼會さ營まれたが、
今日は第四十年の追悼會を開くに至つた。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/132
尤も忘れ難いのは先生の橋場の家に
同窓數人としばしば往來した事であります。
先生は其頃義眞翁の構内に居られた。
先生の住居は家扶でもをりそうな小屋であつた。
先生をお尋すると嘗て一度も
お住居に通されたことはなく、
いつも義眞翁の廣ろい本座敷に通された。
吾々同窓が數名頻繁に往來して
種々政治方面の研究を始めたので
爰に鴎渡會といふ會が出來た。
鴎渡は墨陀の一名所を名としたので風流らしい會だが、
其實は政治的のものであつた。
此頃藩閥者流は先生の行動に注意したので
わざとコンな會名を附し
吾々も打揃うては行かず、
目立たぬやうにして
散々(ちりじり)に會したものである。
吾等は此會に於て始めて政治の
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/138
手習を始めたのである。 p139/219
先生から偏務條約の不當に就て
慷慨談を聞いたのもこゝである。
先生が北海道拂下事件の非擧を鳴らして
吾等に聞かされたのも此會である。
吾等は先生の帷幕にゐて
政治的の手習をなしながら、
改進黨の創立に參畫したと云へば
妙に聞えるであらうが、
改進黨の綱領や宣言などは
吾々が帝大で敎はつたことを
先生の參考に供し、
それを先生が換骨脱胎して書かれたのである。
先生が此文を作るには
幾十回も稿を改めて
例の崇高な音調で度々吾等の前に朗讀された。
吾々ウブの若ものは先生から始めて
實際政治の活機を聞いた。
先生を批判者として演説の稽古をしたのも此會である。
いつも集會すると長時間にわたり
其都度先生の馳走に預かつた。
私自身は先生の消息を他の人々に傳へる役目であつたので、
便宜上先生の附近に居を構へたので、
別して先生に頻々お目にかゝつた。
考へて見れば先生は吾等が
政治生活を始めるに就ての第一師である。
先生は天が我等を惠んで特別に與へた
師たり友たる人であつた。
あんなに熱誠で高潔で人格の高い人は無い。
年は若く學問があり、
友誼が厚く年の割に老成で、
吾等の客気を始終制し、
吾等の歩むべき道を示し
何事にも吾等に範を垂れられた。
吾等が知らず知らず
先生の感化を受けたことがどれほどあらうか。
追々年が老て初心時代を振り返つて考へると
如何にも深甚の薫陶を受けたことを感ぜらるを得ぬ。
先生は熱誠の人でその爲めに自から害なつたのである。
先生は名節に勝つて年壽に敗れた。
吾々は先生が羸弱の身體であつたから、
熱誠體力を計らなかつたことを遺憾とするけれども、
由來短命は熱誠家の運命であることを思へば、
寧ろそれを以て先生の名譽として
先生の精神の貴さを飽までも崇敬せねばならぬ。
先生を追憶するといろいろ
感慨に打れて堪へ難い思がする。
尚言ふべきこともあるが、
此邊で終りを告げる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/139
【文墨余談】市島謙吉著 昭和10年
【文墨余談】昭和10年8月19日発行
著作者 市島謙吉
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/215
「亡友録」 p132/219
[小野梓先生を憶ふ] p132-139/219
~六月十九日早稲田佛敎青年會席上演説大要~
※大正15年(1926)6月19日
小野梓先生の長逝は p132/219
明治十九年(1886)一月十一日、
享年僅かに三十五歳、
今より七年前に早大の佛敎青年會で
三十三周忌の追悼會さ營まれたが、
今日は第四十年の追悼會を開くに至つた。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/132
尤も忘れ難いのは先生の橋場の家に
同窓數人としばしば往來した事であります。
先生は其頃義眞翁の構内に居られた。
先生の住居は家扶でもをりそうな小屋であつた。
先生をお尋すると嘗て一度も
お住居に通されたことはなく、
いつも義眞翁の廣ろい本座敷に通された。
吾々同窓が數名頻繁に往來して
種々政治方面の研究を始めたので
爰に鴎渡會といふ會が出來た。
鴎渡は墨陀の一名所を名としたので風流らしい會だが、
其實は政治的のものであつた。
此頃藩閥者流は先生の行動に注意したので
わざとコンな會名を附し
吾々も打揃うては行かず、
目立たぬやうにして
散々(ちりじり)に會したものである。
吾等は此會に於て始めて政治の
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/138
手習を始めたのである。 p139/219
先生から偏務條約の不當に就て
慷慨談を聞いたのもこゝである。
先生が北海道拂下事件の非擧を鳴らして
吾等に聞かされたのも此會である。
吾等は先生の帷幕にゐて
政治的の手習をなしながら、
改進黨の創立に參畫したと云へば
妙に聞えるであらうが、
改進黨の綱領や宣言などは
吾々が帝大で敎はつたことを
先生の參考に供し、
それを先生が換骨脱胎して書かれたのである。
先生が此文を作るには
幾十回も稿を改めて
例の崇高な音調で度々吾等の前に朗讀された。
吾々ウブの若ものは先生から始めて
實際政治の活機を聞いた。
先生を批判者として演説の稽古をしたのも此會である。
いつも集會すると長時間にわたり
其都度先生の馳走に預かつた。
私自身は先生の消息を他の人々に傳へる役目であつたので、
便宜上先生の附近に居を構へたので、
別して先生に頻々お目にかゝつた。
考へて見れば先生は吾等が
政治生活を始めるに就ての第一師である。
先生は天が我等を惠んで特別に與へた
師たり友たる人であつた。
あんなに熱誠で高潔で人格の高い人は無い。
年は若く學問があり、
友誼が厚く年の割に老成で、
吾等の客気を始終制し、
吾等の歩むべき道を示し
何事にも吾等に範を垂れられた。
吾等が知らず知らず
先生の感化を受けたことがどれほどあらうか。
追々年が老て初心時代を振り返つて考へると
如何にも深甚の薫陶を受けたことを感ぜらるを得ぬ。
先生は熱誠の人でその爲めに自から害なつたのである。
先生は名節に勝つて年壽に敗れた。
吾々は先生が羸弱の身體であつたから、
熱誠體力を計らなかつたことを遺憾とするけれども、
由來短命は熱誠家の運命であることを思へば、
寧ろそれを以て先生の名譽として
先生の精神の貴さを飽までも崇敬せねばならぬ。
先生を追憶するといろいろ
感慨に打れて堪へ難い思がする。
尚言ふべきこともあるが、
此邊で終りを告げる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236048/139
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』