[山守英治氏(奈曼旗參事官)]
【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年

【満洲建設烈士遺芳録】昭和17年
[山守英治氏(奈曼旗參事官)]  p182-186/291
生年月日  明治三十八年六月七日
殉職場所  奈曼旗公署西北方 約五百米附近
遺族名   妻 ユリ 長女 美英子 二女 榮子 兄 六太郎
本籍地   石川縣金澤市大野町四ノ七七
遺族現住所 東京市赤坂區檜町三     (夫人 及 長女)
      石川縣金澤市大野町四ノ七七 (兄 及 二女)
  略 歴
大正十四年(1925)三月    金澤第二中學校 卒業
昭和七年(1932)三月     早稲田大學 商學部 卒業
康徳元年(1934)一月     熱河省綏東縣 參事官 代理
康徳元年(1934)十二月    奈曼旗 參事官 代理
康徳二年(1935)七月二十三日 殉職
訪問月日 昭和十七年(1942)二月十七日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/182
北陸の要都、金澤市の第二中學校に劍道の達人が現はれた。
少年劍客山守英治君その人である。

康徳二年(1935)七月の二十三日、
烈日燒くが如き蒙古原野に悵恨のうちに
生命を散らした風雲兒山守參事官は、
既にその少年時代から、
後年に於ける山守參事官の片鱗を見せてゐた。

大正十四年三月、
山守參事官は金澤第二中學を卒業すると、
翌月には早稲田大學第一高等學院に入學した。

それから昭和七年春、商學部を卒業する迄の六年間、
練磨に練磨を重ねてゐた劍道は素晴らしき進境振りを示し、
その劍風には一つの風格さへ備つた程の大成ぶりをみせ、
早大劍道部の主將として全國の學校劍道部を後方に、
早稲田のみが劍道の黄金時代を創りあげた。

山守氏が早大劍道部主將として學生界に君臨してゐた當時、
範士高野佐三郎氏に引率されてアメリカ遠征を企てたことがある。

現在の未亡人ユリさんが、
このアメリカ遠征當時邦人二世として彼地に在つて、
氏との間に美しき結婚迄に進んだ話は餘りにも有名である。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/183
 ―略―
奈曼八仙洞建設の恩人は      p185/291
僅か三十歳の若さを蒙古原野に散らしたのであつた。
氏の壯烈な最後と前後して、    p186/291
藤川警佐夫妻を除き他の六人は
全部壯烈な最後を遂げたのであつた。

遺された若き未亡人ユリさんは
遺兒美英子ちやんを抱き、
父知らぬ二女の榮子ちやんをお腹の中にして、
「山守はいつでも戰死する覺悟でゐましたから、
 さぞ滿足してお國のお役に立つたことでせう」
と哀しみをこらへ毅然と語つた。

長女美英子さんは今
東京市赤坂區檜町三番地に開く
母のさゝやかな洋裁店で、
又二女の榮子ちやんは
故人の兄六太郎氏の住む郷里
金澤市大野町四ノ七七で、
共に立派な父の遺兒らしく健かに育つゐる。

山守參事官代理は殉職の日を以つて參事官に昇進、
かつての流血地たる八仙洞に、
故人を慕ふ旗民達の手に成る墓標が立てられてゐるが、
參事官の英魂は今も尚、
胡砂吹く蒙古に在つて、
故人の遺志を繼いだ後輩達の努力に
隆々躍進する滿洲帝國を静かに見守つてゐる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/186
出文協 承認 あ140059號
滿洲建國烈士遺芳錄
定價 參圓
昭和十七年九月二十五日印刷
昭和十七年九月 三十日發行
發行所 滿洲日日新聞社 東京支社出版部
    東京市京橋區銀座西七丁目六番地
    電話 銀座(57)三六九五番
編纂者 滿洲日日新聞社
    奉天市敷島區協和街
發行者 中澤不二雄   ※別稿に記載
    東京市牛込區市ケ谷臺町八番地
印刷所 大日本印刷株式會社 榎町工場
    東京市牛込區榎町七番地
印刷者 平石恒夫 (東東一)
    東京市牛込區榎町七番地
配給元 日本出版配給株式會社
    東京市神田區淡路町二丁目九番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042940/288

【早稲田大学校友会会員名簿. [昭和10年用]】
 昭和9年12月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/455
山守榮治 昭和7年 商學 石川 p425/462
     石川縣大野町庄町四七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/425

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[早稲田大学 剣道部]
早稲田大学剣道部の歴史
明治30年(1897) 剣道部創立。
        「九徳館」にて内藤高治先生を師範に迎え
        銃撃として活動を始める
明治35年(1902) 浮田和民を部長として体育部発足
        (剣道・柔道・野球・庭球・端艇・弓術)
大正14年(1925) 第1回早慶戦、不戦6人で優勝(於陸軍戸山学校道場)
昭和5年(1930)   斎村範士と部員25名が満州遠征
昭和6年(1931)   高野佐三郎師範、南里三省監督の引率のもと
        和田金次主将以下10名の選手が米国遠征を行う
 ―略―
http://www.waseda-kendo.com/about/

《中澤不二雄》
【明治大学校友会員名簿】昭和10年
【朝鮮満洲旅の栞】昭和13年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659760.html