[藩儒野本白巖に就き]
【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】大正15年
【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】
大正15年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920549/7
小幡篤次郎先生小傳并に小幡記念圖書舘沿革概要 p2/8
小幡篤次郎先生は
箕田と號し
舊豊前中津藩士供番
小幡篤藏の長男なれとも
先生誕生前篤藏同藩中格式爭に議に坐し
隱居を命せられ嗣なきを以て
同藩士小幡五郎兵衞の弟孫兵衞を養ひて
妹阿秋に妻はせ嗣となせり
先生は其後天保十三年六月 ※1842年7月8日
中津殿町(圖書舘所在地)に生る
幼時四書五經の句讀を父に受け
稍々長して藩儒野本白巖に就き
又藩士古宇田姑山に從ひ漢籍を研修す
先生十四五歳の頃 ※安政2年頃(1856)
白巖の宇佐郡白岩に隠棲し
塾舎を開くに及びて
又之れに從遊せり
十六七歳の頃 ※安政4年頃(1858)
中津町に歸り
藩黌進脩舘に入り舘務(職名)となり
子弟の敎育に從事し
且熱心に武術を修め
文久元年(先生二十歳)には ※1861年
新當流劍道并に立身新流抜合を傳授せられたり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920549/2
【下毛郡誌】昭和二年七月二十日納本
[下毛郡教育の概説] p293/466
第一節 維新前の教育(学制頒布迄)
一 藩立学校 p293/466
二 山川塾 p294/466
三 野本塾 p294/466
中津町に在り、
野本雪巖の子 白巌(眞城)の主宰する所
従学者甚だ多し、
後
宇佐郡白岩村に隠棲せしが
藩の子弟亦従ひて村塾に入り学ぶ者ありしと云ふ。
(人物篇参照)p370/466
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267456.html
《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)
字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の叔父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、
夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、 (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、 (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257816.html
《撰擧人50名姓名並ニ得票ノ點數》
[斯文学会報告書]第壹號 明治14年11月
四百七十点 中村正直君
二百九十三点 小幡篤次郎君
百八十点 小野 梓君
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659757.html
《大久保麑山の父:大久保教直=教連》
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659775.html
【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】大正15年
【小幡篤次郎先生小伝並小幡記念図書館沿革概要】
大正15年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920549/7
小幡篤次郎先生小傳并に小幡記念圖書舘沿革概要 p2/8
小幡篤次郎先生は
箕田と號し
舊豊前中津藩士供番
小幡篤藏の長男なれとも
先生誕生前篤藏同藩中格式爭に議に坐し
隱居を命せられ嗣なきを以て
同藩士小幡五郎兵衞の弟孫兵衞を養ひて
妹阿秋に妻はせ嗣となせり
先生は其後天保十三年六月 ※1842年7月8日
中津殿町(圖書舘所在地)に生る
幼時四書五經の句讀を父に受け
稍々長して藩儒野本白巖に就き
又藩士古宇田姑山に從ひ漢籍を研修す
先生十四五歳の頃 ※安政2年頃(1856)
白巖の宇佐郡白岩に隠棲し
塾舎を開くに及びて
又之れに從遊せり
十六七歳の頃 ※安政4年頃(1858)
中津町に歸り
藩黌進脩舘に入り舘務(職名)となり
子弟の敎育に從事し
且熱心に武術を修め
文久元年(先生二十歳)には ※1861年
新當流劍道并に立身新流抜合を傳授せられたり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920549/2
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
【下毛郡誌】昭和二年七月二十日納本
[下毛郡教育の概説] p293/466
第一節 維新前の教育(学制頒布迄)
一 藩立学校 p293/466
二 山川塾 p294/466
三 野本塾 p294/466
中津町に在り、
野本雪巖の子 白巌(眞城)の主宰する所
従学者甚だ多し、
後
宇佐郡白岩村に隠棲せしが
藩の子弟亦従ひて村塾に入り学ぶ者ありしと云ふ。
(人物篇参照)p370/466
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267456.html
《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)
字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の叔父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、
夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、 (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、 (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257816.html
《撰擧人50名姓名並ニ得票ノ點數》
[斯文学会報告書]第壹號 明治14年11月
四百七十点 中村正直君
二百九十三点 小幡篤次郎君
百八十点 小野 梓君
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659757.html
《大久保麑山の父:大久保教直=教連》
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659775.html