「明治31年~35年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年
[日本女醫會雑誌] 第77號
昭和12年3月 8日印刷
昭和12年3月10日発行
『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
多川澄子編
年 表
明治31年 4月 外國醫學校 出身の
須藤カク、阿部ハナ、日本醫籍に登録。
明治31年 4月 宇良田唯(中村)、醫籍に登録。
明治31年 8月 花谷安枝、醫籍登録。
明治31年 秋 久保サチ、醫師となる。
明治32年 2月 女醫 右田朝子の碑
田端大龍寺に建立され遺髪をその地下に納む。
女史は井上眼科病院に勤務中 病気に罹り、
死に臨み
その眼球を
同病院に研究の資料として遺すことを遺言す。
同院長 井上達七郎博士 主唱者となり
有志者 醵金して此 石碑を建つ。
題額 石黒悳子爵、
選文 井上達七郎氏その閲歴を記す。 p7
寄進者中には、
女醫 前田園子(本吉)、賀川哲子の名あり。
明治32年 春 坂本ヤソ、塚原雄(高橋)、
河野桃野、近藤キシヨ、醫師となる。
明治32年 9月 高田畊安氏 茅ヶ崎に結核療養所 南湖院を創立し、
醫員として女醫を採用す、
副長として在職せし女醫は
初代より、石坂蓮子、河野桃野、前田園子、
高野直子、中村愛子等あり、
その外 醫局員として土岐みや子(高橋)、
初め常に女醫就職す。
明治32年 秋 野間キク、鳥取アイ、浅海コト、醫師となる。
明治33年 秋 濟生學舎、女子學生の入學を拒絶す。
但し當時在學中のものは未だ止まる。
明治33年 小林みよ、村田みつ、朝枝小春(近藤)、
木下なみ、中島フサ、岩浅ワキ、
前島ケイ(今村)、吉岡タダ、太田奈美、
沖本幸、篠田せい、
醫師となる。
※木下なみ=太田奈美
木下奈美(舊 太田)「先輩女子名簿」p3
[日本女醫會雑誌] 第80號
昭和12年8月30日発行
明治33年12月 濟生學舎にて女醫學生の入學を拒絶したる爲、
女醫志望の者方針に迷へるを察し、
吉岡彌生夫妻、
麹町區飯田町に私塾様の女醫養成所を造る。
これ東京女醫學校、
後の東京女子醫專の前身なり。
初めは學生數名に過ぎず。
明治34年 3月 濟生學舎長 感ずる所あり
遂に在學中の女醫學生も全部拒絶す。
爲めに中途廢學するもの、
或は一定の場所を借り p8
濟生學舎の講師に懇願して講義をきゝて
受験勉強をするもの、
女醫學校に入るもの等
種々の方法をとる。
濟生學舎を出されし後期女性組は、十五六名にして、
本郷區中央會堂にて濟生學舎講師を頼み聴講す。
前期生は神田三崎町の歯科醫學校の一部を借り、
濟生學舎の講師を依頼し三十名ばかりにて講義をきく。
その内漸時生徒も増加発展し來り、
「女子醫學研修所」と命名、
石川清忠氏を校長とし、明治37年迄継続、
後 男子の同系統のものと合同して
「東京醫學校」となる。
明治34年 5月 柳澤米子 米國加州大學 醫學部卒業、
ドクトルオブ、メデイシンの學位を受く。
明治34年 6月 吉岡彌生夫妻 設立の東京女醫學校、
牛込區市谷仲ノ町に寄宿舎を設置す。
明治34年 9月 佐世保に開業中なりし
今村ケイ子(後 前島)
清國浙江省日支學校校醫として赴任す。
明治34年11月 前田園子 韓國 漢城病院に醫員として赴任す。
明治34年12月 井上友子 ドクトルとなり米國より歸朝。
明治34年 ?月 松尾千代、尾崎シヅ、巽たけへ、説田てる、
細井シゲ、高野直、太田繁、醫師となる。
明治35年 1月 前田園子 日本女子大學校醫となる。
爾来今日に至る迄継続す。
明治35年 4月 前田園子等の主唱により
「日本女醫會」創立せられ、
第一回會合を上野鶯谷
このはな園に開く。
幹事 前田園、塚原雄、以後毎年二、三回會合す。
明治35年 7月 東京女醫學校、在學生に三ツ巴の優美なる徽章を
胸間に帯ばしめ校風を一層粛正せしむ。
明治35年10月 日本女醫會 第二回を上野公園 三宜亭に開く。
幹事 前田園、塚原ゆう。
明治35年 ?月 小野安子、幣原節子、岡村松、白石すて、
河村悦子、村上琴子、福井榮子、河村瀧野、
醫師となる。
※次稿に続く。
日和下駄(掃苔:墓、舞台、ベイスターズ)
日本初の眼科女医「右田朝子(アサ)」記念碑
2006/5/27(土) 午前 0:27
一年以上前に「正岡子規」の掃苔の為に訪れた
大龍寺にて思わぬ出会いをした「右田朝子」について。
一般的には、殆ど無名と言ってもよいと思われる
「右田朝子」の碑文に偶然にも巡り逢えた。
―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/massy_ishikawa/37015010.html
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年
[日本女醫會雑誌] 第77號
昭和12年3月 8日印刷
昭和12年3月10日発行
『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
多川澄子編
年 表
明治31年 4月 外國醫學校 出身の
須藤カク、阿部ハナ、日本醫籍に登録。
明治31年 4月 宇良田唯(中村)、醫籍に登録。
明治31年 8月 花谷安枝、醫籍登録。
明治31年 秋 久保サチ、醫師となる。
明治32年 2月 女醫 右田朝子の碑
田端大龍寺に建立され遺髪をその地下に納む。
女史は井上眼科病院に勤務中 病気に罹り、
死に臨み
その眼球を
同病院に研究の資料として遺すことを遺言す。
同院長 井上達七郎博士 主唱者となり
有志者 醵金して此 石碑を建つ。
題額 石黒悳子爵、
選文 井上達七郎氏その閲歴を記す。 p7
寄進者中には、
女醫 前田園子(本吉)、賀川哲子の名あり。
明治32年 春 坂本ヤソ、塚原雄(高橋)、
河野桃野、近藤キシヨ、醫師となる。
明治32年 9月 高田畊安氏 茅ヶ崎に結核療養所 南湖院を創立し、
醫員として女醫を採用す、
副長として在職せし女醫は
初代より、石坂蓮子、河野桃野、前田園子、
高野直子、中村愛子等あり、
その外 醫局員として土岐みや子(高橋)、
初め常に女醫就職す。
明治32年 秋 野間キク、鳥取アイ、浅海コト、醫師となる。
明治33年 秋 濟生學舎、女子學生の入學を拒絶す。
但し當時在學中のものは未だ止まる。
明治33年 小林みよ、村田みつ、朝枝小春(近藤)、
木下なみ、中島フサ、岩浅ワキ、
前島ケイ(今村)、吉岡タダ、太田奈美、
沖本幸、篠田せい、
醫師となる。
※木下なみ=太田奈美
木下奈美(舊 太田)「先輩女子名簿」p3
[日本女醫會雑誌] 第80號
昭和12年8月30日発行
明治33年12月 濟生學舎にて女醫學生の入學を拒絶したる爲、
女醫志望の者方針に迷へるを察し、
吉岡彌生夫妻、
麹町區飯田町に私塾様の女醫養成所を造る。
これ東京女醫學校、
後の東京女子醫專の前身なり。
初めは學生數名に過ぎず。
明治34年 3月 濟生學舎長 感ずる所あり
遂に在學中の女醫學生も全部拒絶す。
爲めに中途廢學するもの、
或は一定の場所を借り p8
濟生學舎の講師に懇願して講義をきゝて
受験勉強をするもの、
女醫學校に入るもの等
種々の方法をとる。
濟生學舎を出されし後期女性組は、十五六名にして、
本郷區中央會堂にて濟生學舎講師を頼み聴講す。
前期生は神田三崎町の歯科醫學校の一部を借り、
濟生學舎の講師を依頼し三十名ばかりにて講義をきく。
その内漸時生徒も増加発展し來り、
「女子醫學研修所」と命名、
石川清忠氏を校長とし、明治37年迄継続、
後 男子の同系統のものと合同して
「東京醫學校」となる。
明治34年 5月 柳澤米子 米國加州大學 醫學部卒業、
ドクトルオブ、メデイシンの學位を受く。
明治34年 6月 吉岡彌生夫妻 設立の東京女醫學校、
牛込區市谷仲ノ町に寄宿舎を設置す。
明治34年 9月 佐世保に開業中なりし
今村ケイ子(後 前島)
清國浙江省日支學校校醫として赴任す。
明治34年11月 前田園子 韓國 漢城病院に醫員として赴任す。
明治34年12月 井上友子 ドクトルとなり米國より歸朝。
明治34年 ?月 松尾千代、尾崎シヅ、巽たけへ、説田てる、
細井シゲ、高野直、太田繁、醫師となる。
明治35年 1月 前田園子 日本女子大學校醫となる。
爾来今日に至る迄継続す。
明治35年 4月 前田園子等の主唱により
「日本女醫會」創立せられ、
第一回會合を上野鶯谷
このはな園に開く。
幹事 前田園、塚原雄、以後毎年二、三回會合す。
明治35年 7月 東京女醫學校、在學生に三ツ巴の優美なる徽章を
胸間に帯ばしめ校風を一層粛正せしむ。
明治35年10月 日本女醫會 第二回を上野公園 三宜亭に開く。
幹事 前田園、塚原ゆう。
明治35年 ?月 小野安子、幣原節子、岡村松、白石すて、
河村悦子、村上琴子、福井榮子、河村瀧野、
醫師となる。
※次稿に続く。
日和下駄(掃苔:墓、舞台、ベイスターズ)
日本初の眼科女医「右田朝子(アサ)」記念碑
2006/5/27(土) 午前 0:27
一年以上前に「正岡子規」の掃苔の為に訪れた
大龍寺にて思わぬ出会いをした「右田朝子」について。
一般的には、殆ど無名と言ってもよいと思われる
「右田朝子」の碑文に偶然にも巡り逢えた。
―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/massy_ishikawa/37015010.html