「明治40年~45年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年
[日本女醫會雑誌] 第77號
昭和12年3月 8日印刷
昭和12年3月10日発行
『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
多川澄子編
年 表
明治40年 ?月 越沼フジ(油田)、二宮澄江(仁保)、
玉川よの(本村)、
桑原りうほう(平山)、中山スミ(正井)、
岡田つる、田添ヨシ、
林イワ、采睾トク、
高橋小丈、内田松(晴代)、
小早川トクヨ(池田)、
醫師となる。
明治41年 6月 ドイツに留學なりし福井繁子、
ドクトルメヂーネの學位を得て歸朝す。
明治41年11月 荻野吟子、夫と死別後 數年 北海道に止まり
夫の遺業を継承せしが此年歸國し、
本所區小梅町に醫業を營む。
明治41年 末 大阪関西醫學院 廢校となり p12
茲に學びたる女醫學生は東京の日本醫學校 及
東京女醫學校等に轉學す。
明治41年 ?月 山尾うら、左座かねを(春日)、
井出茂代(竹内)、堀ちよ、
中川だい、高須いま、 ※高須克弥の祖母“高須いま”
杉田つる、川崎とも、
富原ゆく(木阪)、諸石トキ(緒方)、
菅野イチ(島峰)、原トリ(道子)、
桑原うめ枝(林)、
醫師となる。
明治41年 杉田鶴子 東大 小兒科 介補となる。
女醫にして小兒科 介補の最初なり。
明治42年 1月 菊地ゑい、醫師となる。
明治42年 3月 私立日本醫學校 卒業試験 施行の際、
受験生62名中 及第者28名、
しかもその第一位は石川松枝にして
他は悉く男子にて顔色なし、
卒業生を代表して答辭をよむ、
女史は當時二十二三歳の妙齢
然も勉學後 日浅く此榮譽をうく。
校中の評判たり。
明治42年 ?月 第一回(春)に土田せん、宮田邦子、
第二回(秋)に善行地玉與(後 山田)、江間貞子、
石川まつ枝(後 鈴木)、
神山超子、
醫師となる。
明治42年 末 東京醫師倶楽部 醫學講習會なるもの
神田區美土代町に明治34年来開講せられ、
勉學の時間少なき醫學生の爲
約十年間便宜を與へ居たるが、
醫術開業試験廢止の期迫れるにつき
本年度限り閉講す。
此處にも男學生に交り數名の女醫學生學ぶ。
明治42年12月 大阪緒方病院 學術研究會にて
福井繁子「會陰保護術について」演説す。
明治42年 ?月 藤田みつ、北京に於て上流婦人に p13
衛生思想を普及し傍ら診療に従事す。
明治43年 ?月 本郷壱岐坂尋常小學校内に
「中央醫學研修所」なるあり。
數名の女醫學生在學す。
一二年継続の後 閉鎖す。
明治43年 婦人共立育兒會病院なる小兒施療病院
麹町區飯田町に設立、
院長 弘田長博士の下に女醫のみ採用、
初代には、山尾うら、杉田鶴、町田満、内田節の
四女醫勤務、
爾来代々女醫のみ勤務す。
明治43年 東大 小兒科教授 弘田長博士の
薫陶をうけし女醫のみにて
都香草會なる會生まる、
師を中心として年二三回親睦と知識の交換をなす。
明治43年 文部省 醫術会合試験 及第者 激増し
二十二名の女醫出づ
(これより以後は
醫術開業試験及第者の氏名を略す。
詳細は後日發表の古参女醫表を見よ。)
明治43年 曽根操、中川もと、
米國フイラデルフヰヤ、
ウーマンスメヂカルカレツヂ、
オブ ペンシルバニアにて
ドクトル・オブ・メデイシンを得。
明治44年 4月 東大 整形外科 介補 北村静子、
東京に開催の日本外科學會に於て
女醫にして初めて演説をなす。
演題「先天性足内飜症治療成績に就て」
明治44年 6月 大阪灘波病院學術集談會にて
同醫局員 山中貞子
「縫合糸の細菌學的研究」について報告す。
明治44年 8月 吉見こう子、東京市衛生試験所に勤務す。 p14
女醫にして最初なり。
明治44年10月 幣原節子(大阪緒方病院醫員)
同病院學術集談會にて
「子宮腔固定術後に於ける分娩に就て」報告す。
明治44年 私立日本醫學校(明治37年創立)
醫學専門學校となす爲め、女子の入學を拒絶す。
明治45年 3月 東京女醫學校(明治33年創立)
文部省より財団法人組織の専門學校たることを認可され
東京女子醫學専門學校と改稱さる。
4月新入學者95名、
專門學校第一回の入學生なり。
尚 前 在學生より試験によりて56名を
第二學年に編入す。
明治45年 ?月 藤田みつ子、支那より歸朝、池袋に閑居す。
大正 1年 1月 以降 ―略―
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年
[日本女醫會雑誌] 第77號
昭和12年3月 8日印刷
昭和12年3月10日発行
『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
多川澄子編
年 表
明治40年 ?月 越沼フジ(油田)、二宮澄江(仁保)、
玉川よの(本村)、
桑原りうほう(平山)、中山スミ(正井)、
岡田つる、田添ヨシ、
林イワ、采睾トク、
高橋小丈、内田松(晴代)、
小早川トクヨ(池田)、
醫師となる。
明治41年 6月 ドイツに留學なりし福井繁子、
ドクトルメヂーネの學位を得て歸朝す。
明治41年11月 荻野吟子、夫と死別後 數年 北海道に止まり
夫の遺業を継承せしが此年歸國し、
本所區小梅町に醫業を營む。
明治41年 末 大阪関西醫學院 廢校となり p12
茲に學びたる女醫學生は東京の日本醫學校 及
東京女醫學校等に轉學す。
明治41年 ?月 山尾うら、左座かねを(春日)、
井出茂代(竹内)、堀ちよ、
中川だい、高須いま、 ※高須克弥の祖母“高須いま”
杉田つる、川崎とも、
富原ゆく(木阪)、諸石トキ(緒方)、
菅野イチ(島峰)、原トリ(道子)、
桑原うめ枝(林)、
醫師となる。
明治41年 杉田鶴子 東大 小兒科 介補となる。
女醫にして小兒科 介補の最初なり。
明治42年 1月 菊地ゑい、醫師となる。
明治42年 3月 私立日本醫學校 卒業試験 施行の際、
受験生62名中 及第者28名、
しかもその第一位は石川松枝にして
他は悉く男子にて顔色なし、
卒業生を代表して答辭をよむ、
女史は當時二十二三歳の妙齢
然も勉學後 日浅く此榮譽をうく。
校中の評判たり。
明治42年 ?月 第一回(春)に土田せん、宮田邦子、
第二回(秋)に善行地玉與(後 山田)、江間貞子、
石川まつ枝(後 鈴木)、
神山超子、
醫師となる。
明治42年 末 東京醫師倶楽部 醫學講習會なるもの
神田區美土代町に明治34年来開講せられ、
勉學の時間少なき醫學生の爲
約十年間便宜を與へ居たるが、
醫術開業試験廢止の期迫れるにつき
本年度限り閉講す。
此處にも男學生に交り數名の女醫學生學ぶ。
明治42年12月 大阪緒方病院 學術研究會にて
福井繁子「會陰保護術について」演説す。
明治42年 ?月 藤田みつ、北京に於て上流婦人に p13
衛生思想を普及し傍ら診療に従事す。
明治43年 ?月 本郷壱岐坂尋常小學校内に
「中央醫學研修所」なるあり。
數名の女醫學生在學す。
一二年継続の後 閉鎖す。
明治43年 婦人共立育兒會病院なる小兒施療病院
麹町區飯田町に設立、
院長 弘田長博士の下に女醫のみ採用、
初代には、山尾うら、杉田鶴、町田満、内田節の
四女醫勤務、
爾来代々女醫のみ勤務す。
明治43年 東大 小兒科教授 弘田長博士の
薫陶をうけし女醫のみにて
都香草會なる會生まる、
師を中心として年二三回親睦と知識の交換をなす。
明治43年 文部省 醫術会合試験 及第者 激増し
二十二名の女醫出づ
(これより以後は
醫術開業試験及第者の氏名を略す。
詳細は後日發表の古参女醫表を見よ。)
明治43年 曽根操、中川もと、
米國フイラデルフヰヤ、
ウーマンスメヂカルカレツヂ、
オブ ペンシルバニアにて
ドクトル・オブ・メデイシンを得。
明治44年 4月 東大 整形外科 介補 北村静子、
東京に開催の日本外科學會に於て
女醫にして初めて演説をなす。
演題「先天性足内飜症治療成績に就て」
明治44年 6月 大阪灘波病院學術集談會にて
同醫局員 山中貞子
「縫合糸の細菌學的研究」について報告す。
明治44年 8月 吉見こう子、東京市衛生試験所に勤務す。 p14
女醫にして最初なり。
明治44年10月 幣原節子(大阪緒方病院醫員)
同病院學術集談會にて
「子宮腔固定術後に於ける分娩に就て」報告す。
明治44年 私立日本醫學校(明治37年創立)
醫學専門學校となす爲め、女子の入學を拒絶す。
明治45年 3月 東京女醫學校(明治33年創立)
文部省より財団法人組織の専門學校たることを認可され
東京女子醫學専門學校と改稱さる。
4月新入學者95名、
專門學校第一回の入學生なり。
尚 前 在學生より試験によりて56名を
第二學年に編入す。
明治45年 ?月 藤田みつ子、支那より歸朝、池袋に閑居す。
大正 1年 1月 以降 ―略―