[女醫史の編纂雑感]
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編

[女醫史の編纂雑感]すみ子  p44
○日本女醫五十年史を作るに就いて、
 先輩女醫の方々に、
 往復ハガキや手紙で経歴を御尋ねして、
 出来るだけ正確なものをと思って骨を折って見ても、
 どういふものか大方は謙遜されて返事を下さらなかったり、
 「私などは何の價値も無い者だから」などと
 逃げて仕舞はれるので、
 編者にとってはどんなに失望させられるか分らない。

 當時の社會状態に於て、
 婦人の職業中でも最高の女醫になられたといふことは、
 女性史上からも抹殺すべからざる事實であり、
 又、今後益々進歩発展するであらうところの
 我が女醫界の爲めにも、
 この事實を出来得る限り明かにして置くことは、
 来るべきものに對する義務ではないかとさへ思ふ。

 それ故徒らに謙遜せらるゝ事を止めて、
 出来るだけ委しく、
 正確なる資料を、
 且つ御自身のことのみならず、
 他の人の事についても、
 御知らせ下さる事を切望して止まないのである。

○古参女醫の名簿を作る爲めに、
 内務省に赴いて『醫籍』を度々調べたのであるが、
 醫籍なるものが思ひの外お粗末なものであるのに驚いた。

 尤も震災前のものは焼失したので
 假のものであることは分ってゐるが、
 醫籍には、
 單に本籍地の縣名と、
 氏名、
 登録年月日と登録番號、
 醫術開業試験によるものか、
 醫大専門學校出身等の區別だけで、
 姓別も現住所も何も書いて無いのである。

 それで名前が女の様な男もあれば
 男の様な女もあって
 この區別が一向判然しない。
 從って、古い時代の女醫の名は、
 先輩の記憶と、
 他の書物の記録によるより外
 たよりにするものがないといふ、
 心細い次第である。

○古い時代の女醫は、
 其勉學に隨分苦心せられたばかりでなく、
 その地位を得られるにも
 餘程困難であったらしいが、
 その時分に於て、
 早く女醫に勉學の便宜を與へ
 且つ女醫を優遇せられた人に、
 故高木兼寛男爵がある。

 明治二十二年、
 岡見京子女史がアメリカの女醫學校を出て
 日本に歸朝せられたのを、
 東京慈恵醫院に招聘し、
 新設した婦人科の主任とし、
 その慈恵醫院學校に養成されて
 女醫となった本多せん子女史を
 その助手として用ひられた。

 岡見女史は其後二十五年迄継続勤務せられたが、
 同病院醫局員の名籍を見ると、
 院長を除き醫局員の次席に同女史が列せられてゐる。
 これを以て見ても高木院長が女醫をいかに優遇し、
 又女史もそれだけの地位に遇せられる
 人格者であったかといふことが
 窺はれるのである。

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行
 〔非賣品〕
 編輯者   多川澄子
       東京市芝區白金三光町二七三
 発行者   杉田鶴子
       東京市本郷區本郷二丁目三ノ六
 印刷者   谷本 正
       東京市芝區愛宕町二丁目一四
 発行所   日本女醫會雑誌発行所
       東京市本郷區本郷二丁目三ノ六
       電 話 小石川 五七六六番
       振替口座 東京 三一九〇〇番
 廣告申込所 大矢雅美
       東京市目黒區鷹番町三十九番
 印 刷   常磐印刷株式會社

※「京都府立医科大学附属図書館」所蔵の原本をコピー。
  平成21年(2009)10月 小野一雄

《岡見ケイ子:岡見京子》
[東京慈恵醫院]
【東京医事一覧. 明治23年】
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