[故 從七位 林武一 略傳]
【朝鮮国真景】明治25年11月
【朝鮮国真景】明治25年11月
[故 從七位 林武一 略傳] p130/133
林武一は從五位下志摩守元善の後裔にして
其先菊地肥後守武則より出つ
故あつて外戚の姓を冒し
林と稱す
毛利氏に仕へて代々長藩の士たり
父を武造と稱し
母を芳子と稱す
幼名を小太郎と呼ふ
安政五戊年十一月十五日 ※1858年12月19日
長門國阿武郡萩城土原町渡り口の私邸に生る
年甫て十一歳
萩城明倫館文學寮に入り漢學を學ふ後
明治三年(1870)三月に至て
獨逸學校に入り普通獨逸學を學ふ
同六年(1873)
大阪公立英語學校に通學す
同九年(1876)
英國支那艦隊軍醫長軍醫總監博士
「ヨルヂ、バーニー、ヒル」氏に隨學す
同十三年(1880)六月に及んて
山口縣廰に奉職し衛生の事務に從事す
同十四年(1881)十一月
英國皇孫御乗艦
長門赤間關碇泊の節
通辯兼接待委員となり
後ち
大蔵省に轉職して
大阪に赴き
造幣局精製分析の事を掌る
同十六年(1883)五月
俄かに職を辭して
東京に出て
海軍省判任御用掛となる
爾後
海軍省に在て主船局機關課兼造船課僚となり
神戸に出張し
翌年(明治17年(1884))二月
赤松主船局長に隨行して東京に歸り
續て英國へ出張を命せらる
同(明治17年(1884))三月一日
本邦を發し途を米國に取り
單身桑港(※サンフランシスコ)に航し
米國各地を跋渉し
大西洋を經て
英國倫敦(※ロンドン)に着す
此時英人「ジヨン、マツシエース、ゼームス」氏に隨ひ
新造汽船山城丸の回航事務に鞅掌し
會計兼事務員となり
七月九日
山城丸横濱に着船す
即時山城丸を共同運輸會社に引渡し
再ひ神戸に赴き ※17年9月
小野濱造船所の庶務課僚となる
其奉職中
相當試験を經て直に海軍主計補に任せらる ※18年1月
主計本部検査掛となり ※18年3月
又
庶務掛に轉し
同年(明治17年(1884))七月 ※18年
又
横須賀屯營に在勤す ※18年3月
浪速高千穂兩艦
英國に於て製造成るを以て
回航事務取扱委員となり
同年(明治17年(1884))九月 ※18年9月
再ひ英國に渡航すへきの命を蒙り
遠江丸に乗し本邦を發し
十一月英國に着す
翌十九年(1886)二月に至り
在英國倫敦領事館附を命せられ
同(1886)七月
海軍少主計試補を經て
九月任少主計
同二十年(1887)三月
叙正八位
四月歸朝の命あり
同年(1887)六月
補海軍會計検査部検査官
九月又職を轉して
浦賀屯營在勤たり
後ち
會計局用度課僚心得となる
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893/130
同二十一年(1888)七月 p131/133
會計局用度課僚心得を被免待命仰付らる
同月五日待命を免せられ
任交際官試補叙奏任官六等
七月十七日
在朝鮮京城公使館在勤を命せらる
同廿一年(1888)八月赴任
廿四年(1891)十月に至り
三年の期滿ち休暇を賜ふ
十月八日
朝鮮京城を發し歸朝す
同廿五年(1892)の一月
俄に臨時派遣の命を蒙り
廿八日東京を發し再ひ朝鮮に赴く
從七位に叙す
朝鮮各道を巡視し其業を畢て歸朝するに際し
仁川港より汽船出雲丸に便乗す
何そ圖らん
出雲丸朝鮮海全羅道所安島に至り
暗礁に觸れて沈没し
遂に良人をして
不歸の客とならしむ
實に明治廿五年(1892)四月五日午前零時三十分なり
嗚呼哀哉時に
年三十五歳五月三日
朝廷良人の海外に在て
不慮の災に罹るを憫然に被思召
特旨を以て
祭粢料金若干圓を下賜せらる
誠に異數に出つ
聖恩優渥感涙に不堪也
良人は寫眞會員となつて
寫眞術を好む
曾て朝鮮京城にありし日
公務の餘暇器械を携へて
寒暑を不厭山野を跋渉し寫し得たる
寫眞百二十有餘葉あり
妾か良人に隨て
朝鮮京城にありし日
良人寫眞學に志あるを知る今其
撮影中若干を撰ひ
寫眞會員小川一眞君に謀り
之を寫眞石版畫となし
普く江湖諸君の閲覧に供し
聊か良人の遺志を繼く
明治廿五年十一月
故 林武一 妻 亀子 誌
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893/131
明治廿五年十一月十五日印刷
明治廿五年十一月十八日出版
發行者 林 亀子
東京府南豊島郡澁谷村
元下澁谷四百七十三番地
印刷者 曲田 成
東京市京橋區築地二丁目十七番地
印刷所 東京築地活版製造所
東京市京橋區築地二丁目十七番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893/132
【朝鮮国真景】明治25年11月
【朝鮮国真景】明治25年11月
[故 從七位 林武一 略傳] p130/133
林武一は從五位下志摩守元善の後裔にして
其先菊地肥後守武則より出つ
故あつて外戚の姓を冒し
林と稱す
毛利氏に仕へて代々長藩の士たり
父を武造と稱し
母を芳子と稱す
幼名を小太郎と呼ふ
安政五戊年十一月十五日 ※1858年12月19日
長門國阿武郡萩城土原町渡り口の私邸に生る
年甫て十一歳
萩城明倫館文學寮に入り漢學を學ふ後
明治三年(1870)三月に至て
獨逸學校に入り普通獨逸學を學ふ
同六年(1873)
大阪公立英語學校に通學す
同九年(1876)
英國支那艦隊軍醫長軍醫總監博士
「ヨルヂ、バーニー、ヒル」氏に隨學す
同十三年(1880)六月に及んて
山口縣廰に奉職し衛生の事務に從事す
同十四年(1881)十一月
英國皇孫御乗艦
長門赤間關碇泊の節
通辯兼接待委員となり
後ち
大蔵省に轉職して
大阪に赴き
造幣局精製分析の事を掌る
同十六年(1883)五月
俄かに職を辭して
東京に出て
海軍省判任御用掛となる
爾後
海軍省に在て主船局機關課兼造船課僚となり
神戸に出張し
翌年(明治17年(1884))二月
赤松主船局長に隨行して東京に歸り
續て英國へ出張を命せらる
同(明治17年(1884))三月一日
本邦を發し途を米國に取り
單身桑港(※サンフランシスコ)に航し
米國各地を跋渉し
大西洋を經て
英國倫敦(※ロンドン)に着す
此時英人「ジヨン、マツシエース、ゼームス」氏に隨ひ
新造汽船山城丸の回航事務に鞅掌し
會計兼事務員となり
七月九日
山城丸横濱に着船す
即時山城丸を共同運輸會社に引渡し
再ひ神戸に赴き ※17年9月
小野濱造船所の庶務課僚となる
其奉職中
相當試験を經て直に海軍主計補に任せらる ※18年1月
主計本部検査掛となり ※18年3月
又
庶務掛に轉し
同年(明治17年(1884))七月 ※18年
又
横須賀屯營に在勤す ※18年3月
浪速高千穂兩艦
英國に於て製造成るを以て
回航事務取扱委員となり
同年(明治17年(1884))九月 ※18年9月
再ひ英國に渡航すへきの命を蒙り
遠江丸に乗し本邦を發し
十一月英國に着す
翌十九年(1886)二月に至り
在英國倫敦領事館附を命せられ
同(1886)七月
海軍少主計試補を經て
九月任少主計
同二十年(1887)三月
叙正八位
四月歸朝の命あり
同年(1887)六月
補海軍會計検査部検査官
九月又職を轉して
浦賀屯營在勤たり
後ち
會計局用度課僚心得となる
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893/130
同二十一年(1888)七月 p131/133
會計局用度課僚心得を被免待命仰付らる
同月五日待命を免せられ
任交際官試補叙奏任官六等
七月十七日
在朝鮮京城公使館在勤を命せらる
同廿一年(1888)八月赴任
廿四年(1891)十月に至り
三年の期滿ち休暇を賜ふ
十月八日
朝鮮京城を發し歸朝す
同廿五年(1892)の一月
俄に臨時派遣の命を蒙り
廿八日東京を發し再ひ朝鮮に赴く
從七位に叙す
朝鮮各道を巡視し其業を畢て歸朝するに際し
仁川港より汽船出雲丸に便乗す
何そ圖らん
出雲丸朝鮮海全羅道所安島に至り
暗礁に觸れて沈没し
遂に良人をして
不歸の客とならしむ
實に明治廿五年(1892)四月五日午前零時三十分なり
嗚呼哀哉時に
年三十五歳五月三日
朝廷良人の海外に在て
不慮の災に罹るを憫然に被思召
特旨を以て
祭粢料金若干圓を下賜せらる
誠に異數に出つ
聖恩優渥感涙に不堪也
良人は寫眞會員となつて
寫眞術を好む
曾て朝鮮京城にありし日
公務の餘暇器械を携へて
寒暑を不厭山野を跋渉し寫し得たる
寫眞百二十有餘葉あり
妾か良人に隨て
朝鮮京城にありし日
良人寫眞學に志あるを知る今其
撮影中若干を撰ひ
寫眞會員小川一眞君に謀り
之を寫眞石版畫となし
普く江湖諸君の閲覧に供し
聊か良人の遺志を繼く
明治廿五年十一月
故 林武一 妻 亀子 誌
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893/131
明治廿五年十一月十五日印刷
明治廿五年十一月十八日出版
發行者 林 亀子
東京府南豊島郡澁谷村
元下澁谷四百七十三番地
印刷者 曲田 成
東京市京橋區築地二丁目十七番地
印刷所 東京築地活版製造所
東京市京橋區築地二丁目十七番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893/132
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』